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Good morning 学園長! バックナンバー

Good morning 学園長!について

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第51話 〜 最新話

第50話 痒いところに手が届く

日本の幼稚園から大学までの教育内容とその運営は、子供に教育を受けさせる義務(憲法第26条第2項)を負うている子供の親権者である両親の意思に配慮して行われているといってよいと思う(憲法第26条第2項の適用は義務教育の範囲ではあるが)。そのことから、われわれ日本人は、教育現場に義務者である親の意見が反映され、子供の教育が子供・教師・親という三当事者によって理想的な形でおこなわれていると考えているのであろう。しかし、歴史を振り返ってみると分かることであるが、又振り返らずとも現代史の中でもいえることではあるが、いつの間にか帝国議会の中に大政翼賛会が形成され、いつの間にか治安維持法が制定され、またいつの間にか憲法第9条の戦争放棄を無視して自衛隊の海外派兵をし、いつの間にか憲法改正の国民投票法を制定した歴史をわれわれは持っている。帝国議会や国会の何らかの議決によって、「国民の意思」という名の下で、決議し制定したのである。では、その議決や制定に「国民のどんな意思」が反映されているというのであろうか。このことから分かるように、今の教育現場は、子供・教師・親という三者の意思が反映されているということで民主的な教育環境が整っていると安易に考えることはできません。親の要求は、一人の子供の人間教育ではなく、暗記詰め込みによる全員均一の偏差値教育であり、そして教師の教育方針は、その親の要求を基本的に肯定しているのです。もし教師が親の教育に対する考え方を否定するようなことをすれば、学校運営そのものがなり立たないし(生徒が来なくなる)、またその親の考え方そのものを教師は一人の日本人の親として自らが肯定しているからです。このように、「子供の教育とは何か」という教育の根本を十分に議論せずに、「親の背中の痒いところに手が届く」式に学校教育が行われているところに、日本の教育の未来に闇があるのです。

それでは、Good bye!

2007-07-05(Thu)

第49話 赤信号、皆で渡れば青信号

昨夜から今朝の未明にかけて、国会において重要法案である改正国家公務員法、社会保険庁改革関連法、そして年金時効撤廃特例法が与党の強行採決によって成立したようです。聞くところによると、阿倍内閣になっておよそ15法案以上が、国会による十分な審議もせずに強行採決されているようですが、その原因が与野党の意見の対立にあるというのであれば、内閣を総辞職するか衆議院を解散して国民に信を問う、もちろんその前提として、重要法案であればあるほど意見の対立は当然鋭くなるものであるから、国会での十分な審議が望まれるのは当然のことです。これこそデモクラシーの原点です。従って、参議院選挙を自党に有利にするため、この原点をないがしろにすることは、民主主義への冒涜であるし挑戦であるといえます。実に残念な事ですが、日本の歴史をどの角度で切ってみても、これと同じ現象を見て取ることができます。要するに、日本人には民主主義を支える基本的な精神構造である「己とは何か」が欠けているのでしょう。どうもわれわれ日本人には、同じものが人の数や損得によって赤に見えたり青に見えたりするようです。

それでは、Good bye!

2007-06-30(Sat)

第48話 禁煙快楽(その三)

第38話の中で、「禁煙後の快楽」は、マゾヒスティックな影響によって、「喫煙前の快楽」よりも、強度、深さ、質の点でより快楽度の強い快楽が味わえ、そしてその快楽を禁煙後の人生の中で「プラスに生かせる」と述べましたが、それは具体的にどういうことなのかについて考えたいと思います。「喫煙前の快楽」は、「精神の集中とその持続」という誘因による苦痛からの転化によるもの、これは第37話で述べた一種の“runner’s high 現象”と同じ神経細胞への刺激による現象ではないかと推察されるものですが、一方「禁煙後の快楽」の場合は、その快楽の誘因となるものが有害物質であるニコチンとタールの継続的な摂取と摂取を断つことによる神経細胞への刺激であるために、何らかの神経細胞への刺激という点においては「喫煙前の快楽」と幾分似てはいるものの、しかし禁煙後の快楽は、禁断症状に基づくマゾヒスティックな快楽であるために、第一に快楽度がより強く、しかも第二にその快楽現象を「容易に」生じさせることができるという点で大きく異なっているのです。そこで、実に魅力のあるこの後者の快楽を、人生の中でプラスに生かせないものかと考えたのです。しかし、その快楽の特徴の一つである「容易に生じさせる」という要素は、どのような誘因であってもその快楽を生じさせることができるというものではないのであって、その快楽への誘因には禁断症状に類似した誘因が必要なのです。それが「精神の集中とその持続」なのです。後に述べることになりますが、さらにその上、単なる精神の集中とその持続では不適格なのです。それには、「経験を積む」ことによる精神の集中の繰り返しが必要なのです。以上の条件が満たされた精神の集中と、その持続という快楽への誘因があることによって、即座に、しかも快楽度の強い「マゾヒスティックな快楽」へのスイッチが入力されるのです。では、その「精神の集中」とか「経験を積む」とは一体何なのでしょうか?

それでは、Good bye!

2007-06-17(Sun)

第47話 消失したブログのコンテンツを振り返って

昨日、このブログ ”good morning学園長”を愛読されている方から、かって管理上の事故のために消失してしまったコンテンツの一つである「もう飛ぶまいぞ、ひな鳥たち」のことを聞かされ、忘れかけていた記憶を呼び覚まされるような気がしました。確か、そのお話の中で、弱い日本の若者たちに対して私からの強いメッセージを送ったように思います。タイトルは、モーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」の中のアリア 、「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」にヒントを得ました。具体的な内容は、全く記憶にありませんが、私のブログを愛読されている方から今回のようなお話が聞けることは、作者として望外の喜びであります。今後とも、日本の若者に対して熱く語りかける努力を惜しみません。

それでは、Good bye!

2007-06-14(Thu)

第46話 公共の福祉(パブリック・ウエルフェア)に潜む危険性(完 )

基本的人権の規制概念は、前回述べた「公共の福祉」です。そこで、第43話で述べたように、日本史を貫く全体主義的思想という観点から、この人権の規制概念である公共の福祉を捉えると、以下二つのことが問題となります。一つは、憲法の人権規定に謳われている言葉表現から、「公共の福祉に反しない限り人権が保障されるのか、それとも人権が保障されることを前提として、もしその人権を規制する場合には、公共の福祉以外の規制はない」というのか、そのいずれであるかによって、結果が異なるのはもちろんのこと、もし前者であれば人権規定が無いに等しいといっても過言ではありません。もう一つは、それではその公共の福祉とはいったい何であるのか、その内容は如何なるものかを確定する必要があります。現在の法律家たちの通説によると、人権を規制するのは「他人の人権」であり、その他人の人権の集合体が公共の福祉と捉えているようです。従って、人の人権を規制できるのは他人の人権の集合体によって構成された「公共の福祉」によることになります。確かに、理屈としては合衆国憲法の「法の適正な手続」という概念とは異なりつつも“なるほど”と思わせるものがあります。なぜなら、人の人権を侵害できる権利は、その人以外の人の権利の他にはありませんから。しかし、それでは、その「他人の人権の集合体」は、誰がどのような基準でどのような手続きを踏んで、一人の人間のもつ人権を規制する公共の福祉という一つの価値を確定できるのか、ということになります。まさかその決定者が、時の政府の代表者又はその代表者が選んだ裁判官ではないと思いたいのですが、また日本人は、まさか全ての人権をかかる人たちに委譲するほど愚かではないと思いたいのですが。―抜け穴だらけの法律をつくる日本人の丼勘定

それでは、Good bye!

2007-06-03(Sun)

第45話 公共の福祉(パブリック・ウエルフェア)に潜む危険性(その一)

第42話の続きです。

少しばかり法律論にはなりますが、第42話の中で、「日本人のつくった歴史を振り返ってみると、個人の利益よりも社会の利益の方を優先させる思想が一貫している・・・」と述べましたが、今回はその続きのお話です。我が国の憲法である「日本国憲法」の人権条項(第13条)で、概略「全ての国民の人権は、公共の福祉に反しない限り、最大に尊重される」、と謳われています。この「公共の福祉」という概念は、いうまでもなく合衆国憲法の修正条項の中で謳われている「法の適正な手続き」という概念とは異なる概念であることをまず確認しておきます。そして、この公共の福祉という概念の前提となる、国民の基本的人権は、憲法第11条で「基本的人権は侵すことのできない永久の権利」として保障されております。そこで、次回において、この二つの条文を「如何に解釈するか」という解釈論を巡って、われわれ日本人の基本的人権が、自ら持つその特有の丼勘定による解釈によって、いとも容易く侵害されるという現実的恐怖を、私なりに理論的に示そうと思います。

それでは、Good bye!

2007-05-20(Sun)

第44話 翻訳家になるための条件(その二)

私の返答:そのブラックホールのような箇所の読み方を理論的に説明することは、実に簡単なことなのですが、その理論を常日頃読んでいる英文の小説に容易に生かすことができるかどうかには問題があります。つまり、アメリカの子供たちが英語の会話から始まって、学校に通う努力の中で文字による書き言葉を学ぶように、英語の小説を読む、即ち英語の「書き言葉」を読むということは、ただ単に「英語の会話」の延長線上にはないということです。つまり、英語の会話、即ち英語の話し言葉をいくら極めても、日本語においても日本語の書き言葉を理解することができない(文盲という概念があるー英語ではilliterateと表現する)のと同じように、英語の書き言葉を理解することはできません。要するに、「あなたはアメリカ人(アメリカ人の思考)になりきれてもいないし、また英語の”書き言葉の理論”を身に付けてもいない」ということになります。更にいうと、身も心もアメリカ人になり切れないと、英語の話し言葉から始まって、英語の書き言葉を理解することはできない、というわけです。更に重ねていうと、「英会話から英語の書き言葉を理解する」という考え方は、日本人のアメリカ文化に対する異文化理解ではなく、”同化現象である”ともいえるでしょう。

「ところで、あなたはアメリカにいたとき、日本の作家の書いた小説で、しかも英語に翻訳された小説を読んだことがありますか。その時には、あなたのいう“ブラックホール現象”はなかったのではないですか?」

女性の返答:全くありませんでした。

私の返答:そうだと思います。その一見英文で書かれた小説は、本質的には、英語の小説ではなく日本語の小説なのです。従って、その小説を自分の満足できるところまで読めたということは、要するに、あなたは未だアメリカ人(アメリカ人の思考)にはなりきれず、日本人の思考があなたの頭の中に根強く残っている(つまり、アメリカ文化に同化されていない)ことを証明しているのです。

それでは、Good bye!

2007-05-06(Sun)

第43話 翻訳家になるための条件(その一)

昨年のことではありますが、アメリカで7〜8年暮らしたことのある一人の、一般的にいうと教養のありそうな女性から、次のような質問を受けました。もちろん、そのような質問を受けたことはこれまで一度もありませんでしたし、恐らく私の残された人生の中でもないように思われます。その質問を受けたとき私の答えた「返答」を、彼女が私に対してぶつけてきた「質問」と合わせて明らかにし、読者の皆さんにそのなんたるかを考えて頂きたいと思います。

質問:私は小説、特に推理小説やファンタジー ものが好きで、日本語で書かれた小説だけではなく、アメリカに来てからも英語で書かれた小説が読めるように努力もしてきたし、実際に英文で書かれたたいていの小説が読めるようになりました。しかし、どの英文の小説を読んでいるときにもいつも生じる事なのですが、必ず何カ所かに何度読み返しても理解できないところが出てくるのです。その箇所こそ往々にして小説の重要部分であり、著者の語りたいことが潜んでいるのです。いくら努力をしても理解が深まることが無く、小説の本当の醍醐味が味わえないのです。そのブラックホールのような箇所の読み方を教えてもらえませんか。

この質問に対する「返答」は、後日致します。お楽しみに。

それでは、Good bye!

2007-04-29(Sun)

第42話 「一人のひと」がいるからこそ社会がある。

事の本質上、一人の人間がいるからこそ大勢の人間がおり,社会が構成されているのです。従って、決して社会があるから一人の人間がいるのではありません。一人の人間が如何に生きるかとか、社会に対して如何なる関係にあるかとか、また社会は一人の人間に対して如何なる働きかけをするのか,また如何なる働きを求めるのかという問題は、「一人の人間の存在」をあくまでも前提としていえることです。しかし、われわれの住む日本社会は、日常問題から政治問題に至るまで、何事においてもまるでその逆の形になってはいないでしょうか?「我が強い、自分勝手、自己中心(じこちゅう)、他人のことを考えろ、きもい・・・」から始まって、「介護・医療費等あらゆる公的補助の切り下げ切り捨て、家庭・学校・一般社会での虐待、いじめ、村八分、そして大企業中心の中小の切り捨て、格差社会・・・」に至るまで、全て「個」を犠牲にし、常に「社会全体」の利害から見たものの考え方であり、戦前までの全体主義的考え方の基本的思考構造から抜け出ていません。また、戦後教育の中においても、人間教育に必要などの一つの基本的な点、例えば「教師と生徒の関係、教科書の使用と内容、一方向の暗記教育のあり方、偏差値基準の受験教育など」を取ってみても、一人の生徒の存在とその生徒の持つ意思に立った、いわゆる民主的な教育への発展は見られません。そこで、このような社会全体の利益を常に個人の利益に優先させる全体主義的な思考構造とは対照的な考え方に立ち、日本社会の日常問題から政治問題に至るまでのあらゆるものを眺めてみると、実に面白い発見が限りなく生まれます。その様々な発見を時にお話ししましょう。

それでは、Good bye!

2007-04-21(Sat)

第41話 日本の若者に告ぐー人生に偏差値の保証などない!

人間の社会が、すべて野生動物の世界と同じ弱肉強食であるというつもりはありませんが、私の若い頃もそうであったのですが、日本の若者に感じることの一つには、大人の作った社会やその規範に「盲目的に」従うことが安全であるし、正しい生き方であるかのように考えているようで、また現在でも、そのように学校でも家庭でも教えられもしているし、それ以外のことを考える余地はありません。数十年も前のことではありますが、私が中学校のときの卒業式か何かのときに,いつも畏まった儀式のときには必ず挨拶される村でたいそう偉い来賓の方が,「先生方は立派な方でありますから、生徒の皆さんは先生のおっしゃることをよく聞き、立派な人になってください。」と挨拶されたことを今でもはっきりと覚えています。言うまでもなく、この来賓の方だけがそのように言ったのではなく、数十年前であってもまた現在でも、全ての生徒の前に立つ全国の教育に責任のある人々が、私の少年時代に教育者といわれた人がいったことと同じことをいっていることは言うまでもありません。16〜7歳以上の、ある程度分別のある年齢に達すれば、そのような日本人の言っている「内容」に、少しは疑問を持ってもよいのではないでしょうか?その歳に達しても、大人の作った社会を全て「正しい社会」であると思い込み、その大人の考えた暗記詰め込みの「偏差値」を人間の能力を正しく判定できる基準であると信じ、そして更にその信じた「偏差値」によって保証された人生の進路をすばらしいものであると考えるのは、あまりにも幼稚な人間のすることだとは思いませんか?

それでは、Good bye!

2007-04-13(Fri)

第40話 浪人しないで天下の難関大学に入学する方法

騙しのように聞こえるけれども、実は騙しではなく本当のお話なのです。このシリーズの愛読者であれば、このお話も偽物ではないと言うことにお気づきだと思います。このブログの愛読者を、私は決して裏切るようなことはこれまで一度もしたことがありませんし、これからも決して致しません。期待して頂いて結構です。

それは、「全入制度と2年次編入・転入」です。第39話でお話しした事から、次の一つの結論が出ます。第一に、それは、偏差値の低い大学の入学はフリーパスと言うことです。つまり、現在の高校でのガリガリの受験教育をしなくても楽に大学生になれると言うことです。第二に、大学は大学同士で、お互いに生徒獲得にしのぎを削っている上に、グローバル化した社会に合った思考力のある学生を望んでいる。このことから、一つの方法を選択します。それが、「2年次編入・転入」です。3年次編入もありますが、受験生にとってもまた大学にとっても、手っ取り早いのは2年次編入・転入です。なぜなら、@大学1年生は、未だ受験気分が抜けきれず、受験の失敗から容易に立ち直れていないと言うこと、A大学の偏差値は、日本社会に根強くあり、少しでも偏差値の高い大学を日本人なら誰でも目指す傾向にあると言うこと、B編入・転入試験は、「英語と論文」であって、出題が簡単な上に、欧米と同様に「専門能力」はこの二つの科目の「学術系の問題」で容易に判定できると言うことです。つまり、高校の教育は、「専門能力」を判定するという意味では何の意味もないと言うことです。

と言うことは、結論としてこうなります。高校生のときは、自分の最も関心のある学習に励み、最低卒業単位を取って偏差値の合った大学に浪人せずに進学し、「斉木学園で」(ここが一番大事なところですよ!!斉木学園に通学できない全国の若者には、通信教育が用意されています。是非ご利用ください。本当に、商売じみて申し訳ありません。)学術系の専門の英語と論文を半年間しごかれて、憧れの難関大学の「2年生」になる、もし2年次編入・転入試験に失敗すれば、募集人数の多い3年次編入を次年度に受験する、と言う算段です。いかがですか、学費と時間が大いに節約できる上に、私立大学から国公立大学へも複数受験できるのです。ほとんど何の役にもたたない高校生活を、幾分でも緩和できませんか?

それでは、Good bye!

2007-04-04(Wed)

第39話 全入時代にあっての教育とは何か

全入時代とは、大学・短大の志願者数とその総定員数が数字上イコールになった状態を指す。つまり、志願者である側が、大学・短大を選ばなかったら、大学・短大と名の付く教育機関に全員が入学できるのである。この現象を喜ぶべきか、それとも悲しむべきかは別として、現実には志願者と同年代の若者の約65パーセントの者が、かかる教育機関に入学しているのである。1960〜70年代の進歩的文化人の中に、高等教育を望む国民の全員を大学・短大に入学できるような教育体制にすれば、文化的で民主的でそして豊かな人間社会が実現できるかのように言う人たちがいた。その文化人の方々は、今日のこの現象を何と思っているのだろうか。現在、その大学・短大を目指す人、あるいはそれを望む親・学校の教師、そしてその熱意を受け入れる高等教育機関の関係者、さらに卒業生を迎える社会や企業は、現在の狂ったような受験環境を見れば分かるように、一部の大学のみを高等教育機関と考え、将来における社会の担い手である若者をこの不条理な環境に巻き込んでいるその現実を正当であると考えているのである。

従って、かっての理想であった高等教育をいくらうけても豊かな人間社会は、いつまでも実現されず、むしろ、ますます厳しい格差社会の現実を目の当たりにして、若者たちは己の愚かさと哀れさを確認し、取るすべもなく・・・じっと手を見るのである。「どこ」が間違っているのだろうか?それをわれわれ日本人に問いたい。実は、日本人の考える「教育」は、本当の意味での「教育」ではないのではないか?

それでは、Good bye!

2007-04-04(Wed)

第38話 禁煙快楽(その二)

タイトルの「禁煙快楽」は、”禁煙後”に快楽を享受できるというのか、それとも”禁煙中”に快楽を享受できるというのか、そのいずれを指しているのかについてのお尋ねに答えたいと思います。(その一)で述べた内容から判断していただくと分かるように、後者、すなわち「禁煙中」に快楽を享受できるのです。従って,禁煙による快楽は、禁煙中に生じるものであると言うことから、このようなタイトルをつけたのです。快楽を享受しながら禁煙できるというのは、世の常識に逆らった方法です。その快楽は、禁煙後の快楽と比べて、@強度、A深さ、それにB質の点で(これらは重要な要素である)異なるものであるかと言えば、ある意味では異なるものであるし、ある意味では共通のものであると言えます。というのは、禁煙後の快楽は、一般的に言うとレム睡眠・快食・快便、それに体力の増強に基づく快楽ですが、禁煙中の快楽は禁断症状に基づくマゾヒスティックな快楽であると言える点で、一見それぞれが異なった快楽であるように見えますが、生理的側面からすると人間の脳内にある神経系統のある特定部分、即ち苦痛と快楽とを司っている部分に行き着くのではないかと思えるのです。というのは、「精神の集中とその持続による苦痛と快楽」という現象が、喫煙前と同じように禁煙中にも生じたからです。しかも、この現象がマゾヒスティックに生じるために快楽の基準である@強度、A深さ、それにB質の点で 喫煙前と禁煙後に享受する快楽よりも遙かに強烈なものであるといえます。さらに、禁煙後の快楽は、レム睡眠・快食・快便、それに体力の増強に基づく快楽の他に、喫煙前の快楽に比べて上記した快楽の基準に当てはめるとより強烈なものがあると思われます。その意味で、長年喫煙すると禁煙後にも何らかのマゾヒスティックな影響が残ると言わざるを得ません。もし、その影響を自分にプラスに生かせるものならそうしたいと思いませんか。

それでは、Good bye!

2007-03-27(Tue)

第37話 禁煙快楽(その一)

私が禁煙に成功したのは、既に数十年前のことですが、私の禁煙方法なるものが少し風変わりであることから、禁煙に苦しんでおられる多少の方々に興味を持たれ、折に触れ語ってきました。単純といえば単純、素直といえば素直な実に自然で、苦痛を全く伴わないどころか禁煙を試みることによってその試行中に快楽を得ることができる、従って禁煙したくないとまで思わせるような、決して意図的でない、そうでありながら積極的でしかも作為的といえる幼稚な方法です。従って、その禁煙方法なるものは、ある人にとって見れば、当然非科学的なものであると思われるのももっともなことで、かといってその方法を科学的に証明することもできないし、その価値もないかといえば、私にはそうとも思えず、脳神経、あるいは脳生理学分野辺りから少し調べてみようかなという「夢」を抱かせてくれるものでもあるのです。今回は、「禁煙快楽」の第一回目として、その風変わりな方法の真相である核心的な部分だけを結論として述べるに留めます。従って、その方法の解説は、後日折を見て語ることにしましょう。その方法は、人体の持つ快楽の一つである「苦痛は快楽に変質する=禁断症状は快楽である

」という生理現象を利用するものであり、しかもその生理現象は、一種の「マゾヒズム(被虐淫乱症)」に類似するものではないだろうか、という推論を与えてくれたのです。

それでは、Good bye!

2007-03-20(Tue)

第36話 親亀の背中に子亀

「親亀が死ねば子亀が死ぬ、子亀が死ねば親亀が死ぬ。」これは、何事にも当てはまるとは必ずしも言えるものではないが、親亀と子亀の「関係」が深ければ深いほど、一方が死ねば他方が死ぬ確率は、当然高くなる。言い換えると、親亀と子亀は一心同体のため、子亀のためなら何でもやるし、反対に親亀のためなら何でもやる。この親子関係が、もし人間社会に当てはめられるとすれば、決して褒められたあるべき親子関係でないことは言うまでもない。そこには、ともに精神的に独立した人間の存在を認めていないからである。しかるに、未だ成長期の子供を抱える日本の家庭を覗いてみると、誠にかかる親子関係を目の当たりにするだろう。人間として、言い換えるとその精神的独立の在り方からして、日本の親子の精神的未熟さを認めることができる。さらに、この相関関係は、実は日本の教育の中にも見ることができる。つまり、親亀は塾・予備校で、子亀は幼・小・中・高で、そして孫亀は大学である。子亀は親亀から送られてくる生徒=学費を当てにし、孫亀は子亀から送られてくる生徒=学費を当てにする。よって、三者は「お金=利益=物質的欲望」で結ばれており,そのようなところに人間を育てる教育などあろうはずがない。

それでは、Good bye!

2007-01-29(Mon)

第35話 ほんのわずかな能力と蝋燭の炎のような小さな情熱を持つわれわれ人間の命

私は、大自然がわれわれ「人間」に与えてくれた賜は、ほんのわずかな能力と小さく燃える蝋燭の炎のような情熱ではないかと思う。われわれを取り巻く大自然が、その様子を少しでも変えるようなことがあれば、地球上に生きるわれわれ小さな生命は、われわれよりも遙かに小さい命であると思っている昆虫と全く同じ死という運命に至る。それほどか弱いわれわれ人間の大切な命を、なぜわれわれ日本人は、太古の時代から存在していた一定不変の考え方でもあるかのように、「競争社会を前提とした価値観」を、あっという間に壊れそうな一つ一つ異なった、しかもわずかな能力だけれども小さな情熱を持つ、しかし一つ一つ尊厳を持って育てたなら無限の能力と夜空を焦がすほどの情熱をもつ、今にあってはか弱い命に対して、なぜ無情にも一律に、そして暴力的に、「おまえたちのことを思って・・・」と善意を装ってというよりも、自らの無知にも気づかずに半強制的に押しつけているいるのだろうか。か弱き命は、何も知らずに泣いている。善意を装って、しかし自らの無知を知らない人たちが、今日のニュースによると、「ゆとり教育」を廃止することによって、学力があり、高い倫理観を持つ21世紀型の若者が生まれると考えているらしい。

それでは、Good bye!

2006-12-29(Fri)

第34話 入試に勝って人生に負ける。

上のタイトルを、「入試に負けて人生に負ける」と対峙させてみると、この二つの表現はシンメトリックな印象を与えるが、実はそうではない。入試に勝とうが負けようが、いずれにせよ人生に負ける日本人の姿が、私には見える。改めて言うまでもないことであるが、入試とは一体何か、日本の大学、高校、中学は一体若者に何を求めてあのような入試をするのか、そして何を目標としてあのようなことを教えているのか。若い人生を一瞬一刻、入試勉強以外のことはなんの価値もないかのように、全身全霊を注いで、そしてそのあげくに「入試に負けても、そして勝ってさえも、結局人生に負ける」のである。その理由は何か?本来、なんの価値もないあのような「入試と教育」に、価値があると思いこみ、身も心も全て注ぐことによって、己を作り、己の心を育て、そして己以外のヒト、家族,友を知り、そして慕うあの短い青春の大切な時間を失ったからである。

それでは、Good bye!

2006-12-20(Wed)

第33話 教科書と人づくり

日本の学校では、文部科学省の認可を受けた統一教科書を使用している。聞くところによると、学習水準を一律に高く保つためでもあるそうだが(しかし、現実には先進諸国の中で、さほど学力のほどは高くはないそうだ)、そうだとすると、学校教育というものは、「ほんの一部の人間」が教育内容と教育水準を決定し、その決定内容にしたがってそれを実行するのが現場の教師であるということになり、そうだとすると、教師は一定不変の教科書の「単なる解説者」に過ぎなく、決して「教育者」と呼べるようなものではない。事実、学校の定期試験、中高大の入学試験は、全てその統一教科書の理解と暗記の確認テストになっている。結局、学校の教師は、自分たちを上から常に監視している文部科学省の役人の「奴隷」で悪ければ、「ロボット」に成り下がっているともいえよう。塾や予備校は言うまでもなく論外である。私が思うのは、教科書というものは、本来国が作るものではなく、教育の現場から生まれて来るものである。

それでは、Good bye!

2006-12-17(Sun)

第32話 現実と非現実から見えるもの

日本人の教育には、現実と非現実の区別がなく、一つの捉え方で言えば、生まれて死ぬまで現実とはかけ離れたバーチャルな世界で生きることを理想とすら考えるところがある。現実を知るというのは、日本史や世界史の記述を覚えるのではない。また、単に新聞やテレビの情報を知るというのでもない。一人の人間が、その人を取り巻く社会の中で如何に生きるかを前提として、その人の未来のために過去と現在を学ぶことである。このことから、非現実は、現実を前提としているものであって、現実と同等のものでも同一のものでもない。しかし、日本人の考える教育には、未熟な若者へ現在と過去の現実を、その一人の若者ために学ぶ機会を与えることはなく、従ってその若者は、あくまでも全体の若者の中の一人の若者として捉えられているのである。生まれたときから、非現実の中で生き抜く人間に、何が幸せで何が不幸で、何が豊かで何が貧乏で、何が価値のあるもので何が価値のないものであるかがどうして分かるのか。また、非現実の持つすばらしさをどうして理解することができるのか。ましてや、戦争と平和、人間差別、民主主義など分かるはずもないことである。

それでは、Good bye!

2006-12-07(Thu)

第31話 悩まない高校生

先日、このブログ愛好者の一人の方から、一つの話題をいただきましたので、その話題について考えたいと思います。「悩まない高校生」という話題は,第30話で述べたことに触れます。つまり、日本の教師も生徒も”偉い人、偉くない人”という価値観、現代風に言えば、”偏差値”にしたがって、お互いにもたれ合っているのです。さらに言えば、「権威がほしい」、「名誉がほしい」、「金がほしい」、「女がほしい」、”これ分かるよね!日本人なら”。という環境の中で”学ぶ”と言えば、人間とは何か、環境問題とは何か、科学とは何か、更には、幸福とは何か、豊かさとは何か、進歩とは何か、そもそも人間の存在とは何か、等とはなんの関係もないのです。権威をうるのも、金を儲けるのも、女を手に入れるのも難しい。だから、高校で一生懸命教師とともに、時間と金と命を賭けて、そのために勉強をしているのです。だから、高校生は「悩んでいる」のです。だから、高校生は「悩んでいない」のです。

それでは、Good bye!

2006-12-04(Mon)

第30話 受験教育は、教育であるか?

斉木学園は、各種の受験対策を指導しているところですから、「受験教育は、教育であるか?」という問いかけをすることは、勿論自問自答している意味合いもあるのです。しかし、この問いかけをした主たる理由は、自ら「教育機関」であるとか、そこに勤める「教師」であるとか「教育者」であると言ってはばからない無数の先生方が、偏差値を基準にして人間の価値判断を行い、偏差値を上げることに自分の人生を賭け、その行いを教育と呼んでいることは、昨今の報道による「未履修の問題」を見れば明らかなことです。このような考えで、未だ社会を知らない未熟な若者に、その先生方の考える「いわゆる教育」すればどのような結果になるかは、自ずと分かるのではないでしようか。「一人残らずすべての教師」といっているのではないが、ことの性質上すべからく教育に携わるすべての教師に当てはまると思われるのです。なぜ、日本人は「一人の人間」をもっと大切に、温かく、そして尊厳あるものとして育てないのでしようか。日本人に人間らしさというもの、人間であることの誇り、というものを理解できる「力」、あるいは「心」はないのでしようか。

それでは、Good bye!

2006-11-16(Thu)

第29話 翻訳における表現法と文化の壁

翻訳は、本来異文化間の意思の伝達方法ですが、言語は文化の一つのエキスともいえるものですから、たとえうまく翻訳できたと思ってもその訳文を読んだ人が”何か変だ”と思うことがあり得る、ということです。その”変だ”と思う現象は、いくつかの場面で現れます。その一つに、アメリカに長期滞在している日本人が、英文の書物に接したときにも起こりうる現象です。つまり、ほとんどの英文の本や雑誌類を自由に読むことができるのに、時々、人によってはしばしば、何度読んでも理解できないところが必ずある、という反面日本人、言い換えると自分と同じ文化を持つ人、の書いた文章の英語への訳本を読むと理解できないところは何一つない、と言う現象です。しかも、この現象は、日常生活の英会話の中では起こらないのです。海外生活を経験する日本人が増える中で、このような経験が、無意識のうちに異文化へのカルチャーショック、自信喪失、ホームシック、過剰なほどの異文化への評価、異文化と自国文化への無理解、の一つの原因になっているのではないかとも思います。さて、前置きはいいとして,その”変”の原因は何か、と言うことです。思うに「文化による思考法、言い換えると論理の組み立て方」の違いから生まれる、避けられない現象であると思います。この考え方は、小さくは翻訳家の値打ちに関わり、大きくは文化の持つ特徴と結びつくのです。

それでは、Good bye!

2006-10-03(Tue)

第28話 Oil Painting の翻訳で思うこと

昨年の夏頃から、1860年代に英国で出版された油絵の描き方に関する専門書二冊の翻訳に取り組み、一昨日その中の一冊の翻訳をようやく終えて、ほっとしつつふり返っているところです。1860年代と言えば、日本は江戸幕府の崩壊と明治維新の動乱期に当たります。当時の日本の書き言葉は、漱石や鴎外や一葉を読めば分かるように、中国の表記法である漢文と日本の表記法であるカタカナを組み合わせた「和漢混淆文」です。もちろん、この表記法は、表記する前提、即ち伝えたい概念の特定、があっての表記法ですが、この表記された表記語をいくら追究し、翻訳しようとしても、表記する前提である「伝えたいこと」が特定できない、あるいは特定が困難であることが実に多いのです。これはなぜなんだろう? 皆さんに問題を提起しておきましょう。もう一言いいますと、上に述べた、「和漢混淆文」は現在使われていない表記法です。つまり、たったの100年そこらで、われわれ日本人の考えるための、思考の道具である言葉の表現やその表記法がすっかり変化してしまい、過去の表記法は、ほとんどが死んでしまっているのです。ところがどうでしょう!!英語の表記法には、全くと言ってもいいほどほとんど変化がないのです。つまり、19世紀の書物も、21世紀の書物も同じ表記法なのです。この度、17世紀に生きたシエクスピアの翻訳の機会を得ましたので、私は心密かに楽しみにしているところです。まとめますと、強固で、確固とした「尺度」を求めようとしない文化には、未来の明るい発展など期待できる訳がないと言うことです。押忍!!

それでは、Good bye!

2006-09-10(Sun)

第27話 学力とは記憶力のことである

何でもかんでも暗記し、暗唱する。九九から始まって、漢字、英単語、さらには理数系の公式から歴史に至るまで。日本の教育は、暗記に始まって暗記に終わる。しかも、暗記する理由も、根拠も何一つ知らないで、誰もかれも同じものを暗記する。そこには、一人の人間は存在しないのである。まるで、覚えた言葉を繰り返す九官鳥かオウムのように、また意味不明のお経を唱える坊主のように、子曰く・・・。一億二千万人の大合唱である。暗記すると、なんだか偉くなったような、悟ったような気分になり、人によっては驕る人もいるし、妙に謙虚になる人もいる。日本社会では、後者のような人を「人物だなあ」といって、高い評価を与えているが、単に、九官鳥か、オウム、もしくは坊主になったに過ぎないのである。このように、日本人は宗教や儒教を考えるように、学問を考えるのである。つまり、学問の原点は、誰よりも如何に早く、如何に多く、如何に正確に意味不明の経文を覚えるかにある。この競争で評価されれば、この社会では勝者である。何の生産性もなくむなしいそんな作業に、惜しみない時間と労力と、それに金を人生をかけて注ぎ込んでいる。恥知らずに鞭を振るう大人と、振るわれる子達。そして、若者による留まることを知らない犯罪。この悪循環を断ち切れるのか?日本人よ!!

それでは、Good bye!

2006-07-31 (Mon)

第26話 ジーコよ!われわれを自由にしないでくれ!

フィジカルでも、メンタルでもない!

ただ統率がなかっただけなのだ!

規律と統率があれば、われわれには何でもできる!

われわれには八百万(やおよろず)の神々が宿っている!祈りもある!

・・・ そう思うのだ。

自由が敵なのだ!

われわれは自由なんて知らない!

太平洋戦争がそうだ!高校野球がそうだ!

われわれ日本人は人間なんかじゃない!!

・・・昆虫なのだから。

押忍!

それでは、Good bye!

2006-06-27 (Tue)

第25話 博学は無学なり−人間の存在という価値観を忘れた文化

広辞苑曰く、“博学”とは、「広く学問に通じていること。博識。」という。私なりに解釈すれば、あらゆる先端分野の学問に通じている人など神の他いない、のは当然であるから、広辞苑のいう「広く学問に通じている」とは、東洋の世界でのみ理解しうる、いわゆる「博識者」、もしくは「雑学者」の意であろう。言い換えれば、学問という言葉を使っているが、単に物知り博士にすぎないということになる。ベネディクト・クローチェ曰く、「すべての歴史は現代史である。」。E・H・カー曰く、「歴史とは現在と過去との対話である。」。というように、過去の歴史的、科学的事実や成果をいくら知識として量的に知り得たとしても、その知識を現代史といかに結びつけ、いかに生かすかを問わないとすれば、それは発掘現場で物珍しさのために穴掘りをする単なる考古学ファンに過ぎず、本当の意味の考古学者ではない。我々日本人が、「ものまね文化」を担い続けている、とよく言われるのは、このような日本社会の教育の賜であると言ってもよい。日本人の行動ベクトルは、日本の近現代における政治制度と思想史が示すように、日本人の数と同数ほどあるのではなく、たった一点、すなわち強者(米国)、か江戸(精神的鎖国)に向いている。押忍!!

それでは、Good bye!

2006-06-19 (Mon)

第24話 ちゃんちゃらおかしい日本の教育

わたくしの忙しい仕事の合間に、日本の教育について、余計ではありますが、一言申し上げます。

その一、人間教育を受験教育と履き違えている。

結果として生まれるものは、秩序と強制、人間否定の学歴社会、非科学的権威主義、不合理な差別と二重人格 、妄想と欲望、面白い・楽しいの人生、あきらめと死

その二、受験教育が「原因」を無視した「結果」だけの知識量の競争を生んでいる。

結果として生まれるものは、学識・学力=そろばんの技術、思考できない人間の育成=ロボット人間、デモクラシー崩壊の社会、軍国主義の台頭=戦争

その三、自己否定、絶えざる西欧社会への劣等感と羨望の醸成・・・押忍!

それでは、Good bye!

2006-06-02 (Fri)

第23話 有限と無限

思考の空間を「有限なもの」と捉えることは、常識に反している。科学の世界で、ガリレオ、アインシュタインにせよ、宗教の世界で、マホメット、ゴータマ=シッダールタにせよ、無限の宇宙を説いている。そもそも、我々生命体は宇宙の塵から生まれたものである、というのであれば、我々の思考を「ある特定の価値観」で意図的に制約するのは、この自然の摂理に反していることになる。言うまでもなく、思考は単に「空想」による働きではなく、「一定の法則」によって組み立てられるからである。「学問は有限なものである」、とは我々日本人にとって、至極当たり前のことである。なぜなら、「大学は入学するためにあるもので、学問するためにあるものではない」、といういびつな学歴偏重社会に、日本人の誰一人として抵抗する者はいないからである。もし、そうではないと思える人が仮にいるとすれば、その人は少なくとも二千年という我々の歴史を、いかに描いているだろうか。押忍!!

それでは、Good bye!

2006-05-26 (Fri)

第22話 繰り返すことを美徳とする文化

それでは九九の暗唱までいけないのか、といった質問にいちいち『あれは良いが、これは悪い。これは悪いが、あれは良い』、とは言い難いものがあるにはある。とにかく、ここで言いたいことは、英語の単語にせよ、数学や理科系の公式にせよ、果ては歴史に至るまで、何でもかんでも日本の教育の中では、「暗記」、しかも、むりやり”させる”。「子曰く・・・」、といった具合に。その様は、まるで”いったい何を言っているのか、言いたいのか”,さらさら意味のわからない経文を読むがごとしである。それでもって、日本では小学校から大学まで学力テストに役立つというのだから、一体全体学生のどんな学力を、どんな基準で、どのように判定するというのだろうか。1,000年も2,000年も同じ誤りを繰り返して、しかも平然としている日本人の脳みそは、いったいどうなっているのだろうか。

それでは、Good bye!

2006-04-29 (Sat)

第21話 できるできない

長い間空白期間をおいたことを、ここで少しでもいいからいいわけでも述べないといけませんね。私の書いた意見が、一瞬のうちに消えてしまったことは、機械に弱い私にとっては信じられないことでもありました。私の脳の働きを止めてしまったのは、紛れもなくこの出来事です。そのとき以降、機械を本当に信じ切れなくなってしまったのです。どうしてこんなに人間の思考は機械に比べて弱いのでしょう。それとも私の精神が弱いのかと・・・。どれくらいの日数が経ったのか知りませんが、ある職員にしかられてようやく書いてみようかな、という気持ちになりました。それが“できるできない”です。日本の文化には、本当の意味で“できるできない”がないのです。つまり、一つの基準があってこそ“できる”、とか“できない”とか言えるのです。その一つの基準という物がないのが、日本の文化の特徴なのです。英語一つ取ってみても、学校の教師も、偉そうに解説している予備校の講師にしても、誰も英語を正しく読め、また書けるわけでもないのです。英会話を英語の全てと思いこんでいるのが、その人たちであり、また日本人なのです。英会話を聞いて、しゃべるだけの状態を、「文盲」と呼んでいるのは、ご存じのとおりです。なぜ、そうこうしてまで、「文盲」になりたがるのでしょうか、日本人よ!!

それでは、Good bye!

2006-04-17 (Mon)

第20話 事故のため消失

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それでは、Good bye!

2005-09-15 (Thu)

第19話 事故のため消失

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2005-09-15 (Thu)

第18話 社会は、無意識のうちに、人を生かしもするが、殺しもする

人間は、社会的動物であるが故に、考え方、信仰、習慣、生活様式、更には趣向に至るまで、個々の人間の受け止め方は異なるも、基本的にはその属する社会のもつ特質によって、決定される。しかし、その決定の仕方が社会にもつ同質性を強く求める特質か、そうではなく個々の社会構成員を一人の人間として法的かつ精神的独立の主体として認めることを前提とするか、によって社会構成員の生き方に大きな、しかも異なった影響を与える。日本社会は、その内の前者に当たると言える。私の知るTOPOLOGY(位相幾何学)の研究者は、己の「精神的自由」を、学問には忠実に、しかし、日本社会には、慎みつつも、ほんの少しの我が儘であったがため、人間として生きる権利を奪われ、数学者としてさらなる可能性を求めることもできず、昨年この世を去った。私は、彼の言葉を借りて、彼のことを次のように呼ぼう。21世紀になっても、未だ閉鎖的な日本社会に、一人の「孤高の」、しかし「放浪の」数学者が生きていた、と言うことを。ここに記して、ご冥福を祈る。

それでは、Good bye!

2005-07-23 (Sat)

第17話 普遍の真理を求める者は、死をおそれることはない

「普遍の真理」(神と呼んでも良い)という、万物の原点に向かうことは、裏を返せば、その原点から生み出されるところの、我々を取り巻く「万物」、すなわち、未知の、無限の「物質的、精神的空間と諸現象」を解明することにつながる。つまり、人それぞれが精神活動の中で、積極的かつ真摯に、生や未来を「求める」ことこそ、真の意味で「精神的に解放される」のである。要するに、原点に向かうことは、出口の見えない閉塞感に苦しみ、逃げ場を求めるのではなく、生きることへの一定の満足感と未来への目標が示される、と言うことである。更に言うと、普遍の真理に向かうことは、無限の宇宙へ至る、と言うことである、ところが、日本の宗教(ここでは仏教をいう)は、同じような心の閉塞感を解消する働きをもっているが、巧妙な「仕掛け」によって、人の悩み、苦しみ、恐怖心を解消するための「逃げる場」を与えている、と言って良い。

それでは、Good bye!

2005-07-05 (Tue)

第16話 事故のため消失

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それでは、Good bye!

2005-09-15 (Thu)

第15話 日本の教育は、「教養」を旨として時代錯誤の「無教養人」を作る

日本の教育を見ればわかるように、当代の日本社会を「完結社会」とする考えに立っているために、教育は、一つの生徒のもつ「潜在的能力や可能性」に向けて働きかけるのではなく、あくまでも「完結社会」での秩序や規律の維持のために行われている、と言って良い。従って、日本の教育は、個人のために行われているのではなく、社会を維持するために行われているので、「個人主義教育ではなく、全体主義教育である」と言うことができる。その好例として、学校や民間の教育の実態は、何と!進学のための受験教育、つまり、先程述べた一人の生徒の無限の能力や可能性に向けられた、あらゆる角度からの専門的指導ではなく、検定を受けた官製の教育内容を、一方的に、しかも一律に暗記するように押しつけるのである。その必要を満たすために、教育内容は、すでに戦後およそ60年経っているのに、日本の学校や民間教育の中では、未だに亡霊のように生きているのである。それを必死になって覚えてこそ、日本社会でのみ通用する「知識人」となりうるのであり、そのプロセスに耐えてこそ、日本社会の秩序や規律を身につけた「徳のある人」になりうるのである。見るがいい!T.U、K.Uの卒業生たちを!ニッポンの若者に、どうして勉強するのかと尋ねてみたら、ベンベン!決まって答えるその返事、ベンベン!超有名校にはいるため、ベンベン!

それでは、Good bye!

2005-06-28 (Tue)

第14話 事故のため消失

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2005-09-15 (Thu)

第13話 事故のため消失

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2005-09-15 (Thu)

第12話 タイトル不明

英会話ができると、英字新聞や英文雑誌が自由に読めたり、英文で手紙が書けたりするのか。概して言えば、そうではない。ご存じのように、文盲(illiteracy)と言う言葉があるが、これは、自国語が話せ、そして聞くことはできるが、読んだり、書いたりすることはできない状態を言う。詰まり、単なる音ではなく、“言葉”という手段を用いて意思伝達をはかっているが、その言葉を表記によって伝えるのではなく、表音によって伝える点で、表記のみを媒介とするリーディングやライティングと異なるのである。従って、英文を読んだり、書いたりできない大方の日本人が、日常生活の中で使用することのない英会話を学ぶことにより、英会話ができる上に英文もマスターでき、一石二鳥と考えるのは、大きな誤解である。言ってしまえば、いずれもできるようにはならない、ということである。しかし、英会話を構成する言葉の配列誘因と、英文を構成する言葉の配列誘因は、当然同一の要素から形成されているので、“通訳者(interpreter)は、英文の読み書きはできるが、通訳はできない”という公式は成り立ちうる。とはいえ、この公式は、あくまでも通訳者による言葉の表現が、外国語の配列誘因を、自らの脳で論理的ではなく、無意識のうちに操作できることが前提となる。要するに、"a"という社会で暮らせば"a'"という言葉をしゃべり、"b"という社会で暮らせば"b'"という言葉をしゃべる、といった具合である。わかりやすく言えば、言葉の操作が、“英語で考え、英語で話す”ネイティブと同じ状態になることである。しかし、問題は、"a"という社会にいて、しかも"b'"という言葉を自由に読み書きできるか、ということである。つまり、この作業は、"a'"という言語を"b'"という言語に、"b'"という言語を"a'"という言語に変換する(翻訳する)ことに関わる問題なのである。私はこの点について、先に述べた「言葉の配列誘因」の解析を考えている。

それでは、Good bye!

2005-06-18 (Sat)

第11話 事故のため消失

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それでは、Good bye!

2005-09-15 (Thu)

第10話 今時の英会話とは何か。

公用語が日本語であるときに、国民皆英会話という方針をいかに理解したらいいのか。考えられることは、日本社会で生活するに当たり英語で会話ができないと不便を感じると言うことである。しかし、私のように長年日本人をやってきて、英会話を必要とする状況に遭遇したのは、これまでの人生の中でたったの一回にすぎなかった。この一回のために英会話を学習することが、いかにばかげたことであるのかは言うまでもない。もし、そうではなく、将来における留学もしくはビジネスチャンスの準備というのであれば、準備するのに必要な時期に学習すればよいことで、それでもなく中学一年から高校三年までの六年間というもの、歪んでいるとはいえ、英語なるもの(受験英語と呼ばれ、その実態は英語ではないが)を学んでいるのである。よって、国民皆英会話を旗印にして、小学教育にまで英会話を導入するという必要性は全くない、と言わざるをえない。にもかかわらず、国民皆英会話を唱える考え方は、第九話で明らかにしたように、「なぜ英会話を学習するのか」という大前提を、国民が意識して認め、しかる後に学習する、というのではなく、英会話に対してもつ日本人の美意識、“かっこいいから”といった副次的理由で、まるで習い事の一つでもするかのように、膨大な時間と労力とお金を投入するのである。しかも、その学習法と来たら日本人特有の、「暗記詰め込み」で、漢字を覚えるがごときである。子供の精神的負担はかえって大きくなり、その心は、意に反してますます方向の定まらない窮鼠状態になっていく。何と愚かなことをすることか。

それでは、Good bye!

2005-06-11 (Sat)

第9話 日本人の美意識と自我の確立

電車が、時刻表どおりに寸ぷん違わず発着する様は、外國人にはさぞ驚きであろう。しかし、この現象が、乗客の命を軽視する、実にうかつな軽業師の美意識にたったものだとすればどうだろう。もし、この美意識に利益追求が加われば、JR福知山線脱線事故のように、多数の乗客の命が犠牲となる。つまり、この美意識である”定時運行”を認めているのは、他ならぬ我々日本人ではないのか。同じことは昨今の憲法改正論議でも言える。昭和二十一年の第二次世界大戦直後に、日本の安全保障を、憲法第九条第二項で「戦力の不保持」に求めていたものを、いつの間にか専守防衛とか国連平和維持軍とかいって、憲法第九条の精神を骨抜きにする。学校教育も、今や自我の確立した人間を育てるのではなく、すなわち教育基本法第一条による「自主的精神に充ちた〜国民の育成」ではなく、あくまでも進学のための受験教育を目的とするものになっており、もはや人間教育をする場ではない。このように、大前提であるべき精神が副次的理由によっていともたやすく覆してしまう国民に、自我の確立はないし、また未来もない。

それでは、Good bye!

2005-09-15 (Thu)

第8話 事故のため消失

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それでは、Good bye!

2005-09-15 (Thu)

第7話 日本教育の中の協調性とは何か

一方通行の教育では、確かに協調性が問題になると思う。考えてもみたまえ。教師が熱弁をふるっているときに、本を読んだり、パソコンで調べ物をしたり、またノートに作曲したりでは、「こっちを向け。」といいたくもなる。勿論、その熱弁が意味あるものであれば、そう言いたくなっても別に不思議ではないが、検定教科書の中身を暗記することが真の教育と思いこみ、機械的に、板書したり、解説したり、の現在日本で見る、“人間教育”とはほど遠い、わがままな振る舞いには、強調せよ、と言われても、人間であればしたくなくなるのも当たり前である。そんな教育の現場に、協調性を教育の一つの目標とするのは、実に愚かしいことであると思うが、現実には“協調性がない。”などと教師が未来のある若者の通信簿に書いているのである。このようにして、背後に国の教育方針をもって、国民一律にかつての軍人教育ににた教育を施し、結果的に、個性ある貴重な人間を人間ロボットに作り替えているのである。

それでは、Good bye!

2005-05-28 (Sat)

第6話 事故のため消失

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それでは、Good bye!

2005-09-15 (Thu)

第5話 教育を語りながら犯罪を犯す教育者たち

世間では、学力を伸ばすための前提条件として、“努力”を賞賛する。しかし、努力することが、学力の伸長に大きな影響を与えるとしても、必ずしも伸長という結果を得ることができるとは限らない。個人の持つ潜在的な資質や、能力によるものが大きいからである。従って、努力によって得るものは、人によっては学力の伸長ではなく、人の人格に与える影響であって、これこそが貴いものである。しかるに、世間では、努力が学力伸長に結びつくものであることを当然のことと考え、努力しても、学力伸長がなければ、その努力は無意味なものとして切り捨てる。この考えに立って、幼い学齢児童に英才教育とかなんとかいって、その児童の持つ本来の資質や能力を、学校、塾、予備校、それに親が、一方的に抑圧し、大半の児童は精神障害を引き起こすに至っている。この現象を一歩離れたところから見た場合、一種の犯罪にも当たるのではないか。犯罪の低年齢化と呼ばれる児童による犯罪、あるいは、そういった児童が成長したのちに引き起こす社会を震撼させるような犯罪、を当の本人の悪なる意思と行いに元凶を求めているが、果たしてそうなのであろうか。教育を語りながらこの偏った価値観を押しつける方にこそ、大きな責任があるのではないか。

それでは、Good bye!

2005-05-17 (Tue)

第4話 塾、予備校は寺子屋、小中高は藩校、では大学は?

江戸幕府による検定教科書を、21世紀の人物像を育むとは到底いえない偽物であることを疑わず、金科玉条の如くにとらえ、日々、塾や学校で「子、曰く…」と大声を張り上げる教師の解説を神妙に聞き、その教育成果が、中村修二の言う"超ウルトラクイズ"である「入試」という判定に従ってあの悲喜こもごもの合格発表風景へつながっていく。世は、まさに諸外国が開国を迫り、幕藩体制が今にも崩壊しつつあるのを知らず、二宮金次郎を教師も親も全国民こぞって、道徳上、教育上、21世紀のあるべき人物像として描き、暗記や詰め込みによる勤勉な努力を貴いものだと考えて、井の中の蛙状態になっていく己を知ることなく、"寄らば大樹の陰"式に浮き草の生き方をしっかりと身につける。大学卒業間近になって、ようやく、"人生と労働"という問題に直面し、はねつけられ、自分の能力と現実社会による要求とのギャップを否応なしに思い知らされ、せめてもの抵抗として"資格取得"へと走り、それもかなわない現実によって、"人生と労働"を否定的な、恐ろしい対象物として捉えることになる。"労働"こそ、その人の生き方と結びつけられることによって、"人生"を有意義なものにすることも知らないで。

世は、いつの間にか、丁髷から散切頭へ、そして7:3カットに変っても人間らしく、自分らしく生きることのできないスーダラ人生の中で、"年金"という金禄公債をうけて、飢えを凌ぐ。

それでは、Good bye!

2005-05-11 (Wed)

第3話 茶髪に一言

すでに37年前のことになるが、ある私立高校の校則で丸坊主を強制していたのを、当時の生徒会が校則の改正を要求し、学校側は丸坊主を学園の教育方針の一つとかいう理由で、生徒会の要求を一方的に拒否したが、その後程なくして長髪をみとめるようになった、という事例を私は知っている。昨今、東北のある県立高校で似たような問題が発生し、この場合には結果的に、一人の生徒がその県立高校を退学し、一年遅れで別の私立高校に入学するという苦痛を味わうことになった。学校教師を含む我々日本人には、何でもかんでも同じにしたがる、なりたがるといういびつな性癖が根っから染みついているのだろうか?”暗記詰め込みに基づく偏差値”という実に一方的な基準でさんざん人間差別をしておきながら。

それでは、Good bye!

2005-04-23 (Sat)

第2話 私の教育観

私の教育観として、「教育の一つの役割は、一人の人間が生まれながらにして持つ人間としての未熟なる能力をともあれ肯定し、それぞれの持つこの神聖なる能力を教育の力で発展させることである。」、と思うのですが、果たして日本の学校教育、および塾・予備校などの民間教育はそうなっているのでしょうか?実際の教育現場は、一つの決定された(公定された、または教師による盲目的な判断といっても良い)科学的及び非科学的事実を、一方的画一的に、教育を受ける者の「存在及び意志」をほとんど無視する状態で(おまえたちのためと称して)、押しつけてはいないだろうか?こんな教育を受けた人間は、いったいどんな人間になるか?自分の頭で考えることができず、”自分は何者か?”という疑問が、“自己否定”に繋がったり、歪んだ差別意識(上と思う者にコンプレックス、下と思う者を見下す)を生み、ひいては“人の心”を失わないか?

それでは、Good bye!

2005-04-03 (Sun)

第1話 新コーナー開設のお知らせ

このコーナーは、Good morning 学園長!と題して、斉木学園学園長が世の中の様々なことについて思い切り自由に、しかも無責任に発言するコーナーです。ご期待下さい。
同じ趣旨の企画は、当ホームページ内および奈良新聞社「ならリビング」誌上の「Headline 翻訳コンテスト」でも3年以上にわたって連載しております。あわせてお楽しみ下さい。

それでは、Good bye!

2005-03-18 (Fri)

第51話 〜 最新話