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Good morning 学園長!について
21世紀に生きる若者のために、筆者が自らの体験に基づいて日本の教育や社会を熱く語るブログです。このブログには、日本の社会や若者に対して強く批判するところがありますが、これも言うまでもなく日本社会と日本の若者を愛すればこそ生まれた怒りであると思っていただきたいと思います。
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第85話 翻訳三昧
ひょっとして以前にも同じタイトルのお話をしたかもしれませんが、そのときはご容赦を。
今年のゴールデン・ウイークは、どういうわけか他に予定がなく、結果として翻訳三昧となりました。
翻訳をしていても精神的になんの負担にもなりませんし、むしろ良書ほど著者と正面から向き合えて、私の考え方の是非について、良き鏡の役割を果たしてくれるのです。
今、ヨガと女性医学に関する医学書を翻訳していますが、この書物は毎週一回開講している翻訳学校の使用教材の一つでもあるのです。
この書物の中に、こんな記述があるのです。「アマ(ama)と呼ばれる、消化されず体の中に淀んでいた食べ物のかすや激しい感情、そのほか様々なストレス要因が、月一回の月経血によって体外へ追い出される]、というところです。前半の「食べ物のかす」はいいとして、後半のくだりは実にインド哲学、ヨガの世界を髣髴とさせるものですね。科学なんでしょうか?それとも非科学なんでしょうか?
それでは、Good bye!
2008-05-01(Thu)
第84話 空気なんか読まなくったっていい!!
よくK・Y(空気読めの略語)という言葉を耳にする。この言葉を聞くたびに、私は情けなくなってくるのである。
周りの雰囲気を考えて、行動や発言をしなさい、という意味のようである。TPO(time,place and occasion)も似たような意味や使い方を持っているが、ある意味でそれとはまた違うようである。
このK・Yという言葉は、市民生活の中で用いられているわけで、したがってその使用が一般化してくると、「市民生活上の習慣やルール」となってくる。つまり、一つの社会的半強制力を持ってくるのである。
私は、その現象を「文化が醸し出す無意識の中の自縛現象」と呼んでいる。つまり、「自縛」なのである。なぜなら、この言葉の根底にある思想は、日本文化特有の「自己否定」が読み取れるからである。
私は言いたい!! 「日本の若者たちよ、空気なんか読まなくったっていい!!」と。
それでは、Good bye!
2008-04-28(Mon)
第83話 翻訳の役割とは何か(第一回)
翻訳,すなわちtranslationとはA言語の内容をB言語に変換させる作業のことです。
言語のもつ語彙数や語形・構造は、言うまでもなくその言語を生んだ民族による文化を反映したものです。つまり、言語と文化とは切断できない等式で表されるような相関関係にあるといえます。
したがって、言語の発達は文化の発展であり、反対に文化の発展は言語の発達ということになります。見方を変えれば、ある言語を見れば、その言語を使用している文化がおのずと見えてくるし、その現象を逆に利用すると、ある意味では怖いことではあるのですが自分の文化が見えてくる、つまりある言語が自分の文化を知るための「鏡」となる現象を生むということになります。。
翻訳はそのような重要な働きをもっているのです。
だとすれば、翻訳のあるべき、あらねばならない姿とは一体なんでしょうか。日本社会でみる翻訳とはなんでしょうか。翻訳であることの最低条件とはなんでしょうか。日本の文化や歴史は、異文化とどんな関係にあるのでしょうか。文化の特異性と普遍性とは何でしょうか。発展する文化と滅び行く文化とはなんでしょうか。などについて、今後考えてみたいと思います。
それでは、Good bye!
2008-04-24(Thu)
第82話 日本人のいう「個性」とは一体何?
昨日、Yahooニュースを見ると、松下電器産業(株)の入社式で、社長が新入社員に「自分の個性を発揮するように。」と言ったそうですが、当の新入社員は日本人として生まれ出てこのかた、幼児期・思春期・青年期の21〜22年間に教育を通してアップダウン式に自分の個性、というよりも一人の人間としての誇りまで、「学生としてのあるべき姿とか集団教育における協調性」とか言う名目によって、否定され、削り取られてきた。
その徹底した仕上げの一つである、それが教育か?と疑わせる大学受験のためのセンター試験を見るがよい。たとえば、その教科の一つである数学の解答方式はというと、なんと同じ考え方に加えて同じ解き方まで要求してくるのである。社会はというと、言葉は「社会」というけれども、その実態は「過去の歴史を学んで、現代や未来の自分を含めた人間や社会の有様を知る、という人間への啓蒙」にあるのではなく、まるで電話帳の電話番号をいかに多く、そして早く覚えられるかに似た、実に無味乾燥な記憶力競争をしているのである。
そのような、教育とはかけ離れた非生産的な経験をしてきた新入社員に向かって、「個性を大切に!」と、まったく相矛盾したことを平然として世界企業の一つが言うということは、それこそ様々な問題が出てくるのである。その一つに、その企業も他企業と同様に、例外なく今新入社員であるフレッシュマンも10年か、長くて20年後には、確実にそのほとんどの人は使い捨てカイロのように、個性のない人間=消耗品として捨てられる運命にあるということを意味する。
それでは、Good bye!
2008-04-02(Wed)
第81話 日本社会は偽物だらけ
建築、建材、食料品、社会保険など、今や日本中のありとあらゆるものが「看板に偽りあり」といった状況になっている。
つまり、「だまし」なのである。刑事法でいえば、さしずめ「詐欺か詐欺っぽい」犯罪ということになろう。犯罪性があるということは、当然そこには「違法性」も「責任」も大なり小なりあるということである。
問題はこの犯罪行為を明確な故意(犯罪であることを知っていること)に基づくのではなく、ある意味では未必の故意(犯罪であるかもしれないが、仮にそうであったとしても構わない)に基づいて、しかも法を直接犯していなければ何をやっても構わないといったような風潮や考え方は、きりがないほど日本社会に蔓延している。
その一つに教育がある。教育は、教科書を丸暗記することではない。人間教育の本当の意味を知らずして、教科書の解説と丸暗記しか指導できない者は教師とはいえないし、その者の行為は決して教育といえるものではない。
近年ますます、教育の現場に「偏差値」という非客観的な価値観に基づいた競争原理が、まるで教育のあるべき指針であるかのように取り入れられているが、誠に憂えるべきことである。
私はこのような現象を「教育詐欺」と呼んでいる。
それでは、Good bye!
2008-04-01(Tue)
第80話 勉強は一生もん
何のために勉強するのか。目標の大学に合格するためか、それとも現代社会に生きるための道徳や教養を身につけるためか。
前者であれば、大学は、本来全ての人が行くところではないのに、なぜ日本人はあらゆる犠牲を払ってまでして行こうとするのか、という疑問が出てくるし、一方後者であれば、国家や学校は、なぜ未来に生きる若者の立場で、日本の戦争史や現代史を教えないのかという疑問が出てくる。
ともあれ、勉強はその人の生き方に深くかかわり、その結果として、人によって構成される社会や国家のあり方に深くかかわっている。従って、人ひとりひとりの生き方に大きな影響を与える勉強というものは、「一人の人間の尊厳」を前提とするものでなければならない。そうであってこそ、健全で理想に近い社会や国家の建設、およびその意思の形成が可能となる。
しかし、現実の学校教育はいかなるものか。全ての若者を統一基準の統一テストで一括りにする。そのためには、統一教科書で“アップダウン式”に教科書の記述内容を、それが真実であるかはいうまでもなく、それが教育であるかを疑うことすらできない教師によって、「子曰く・・」調で、額に汗してせっせと解説授業が行われる。それを教育と呼び、その目的は偏差値の高い志望校への合格者数である。
あなかしこ あなかしこ あなかしこ・・・。
それでは、Good bye!
2008-02-23(Sat)
第79話 2008年2月7日(木)の私
「禁煙快楽シリーズ」を書き終えて、次の作品へなかなか手がつきません。というよりも,これから先の自分の進むべき方向性がいまだついていないといった方がよいように思います。
おそらく、ある程度これまでの自分の気持ちをこのブログの中で整理できたと思っているからでしょう。これまでの自分の気持ちは,これからの自分の気持ちと当然のことながら繋がっているわけではあるのですが,今一歩前に進めないのは、やはり、これまでの自分にこだわりすぎていたのではないかと思っています。
「出版翻訳」、「翻訳理論の研究」、「言語と文化」(言語学・文化人類学・東洋の思想史)、「翻訳ソフト開発」(翻訳理論とサイバネテックス)と、このように自分の意識の中心にあるものを言葉に書き表してみると、以外や以外、「言語と文化」以外は全て翻訳に関することばかりですね。
ということであれば、少しばかりは前進できるかもしれません。時間はかかりますが、亀さんのように一歩一歩前に進みたいと思います。
それでは、Good bye!
2008-02-07(Thu)
第78話 禁煙快楽(完)
このシリーズもいよいよ最終回となりました。
この「禁煙快楽」シリーズは,前回のまとめの中で述べた「人体の不思議さ」、言葉を変えて言えば、「肉体と精神との関係」を書き記したものです。
読んでいただいた方なら分かるように,私がこの経験によって得た最大のものは、結局人間の意志や感情,言い換えると「やる気,根性,忍耐」や「楽しい,悲しい、面白い」という意思や感情が,意外なことに、肉体から独立した存在ではなく、むしろ「肉体の働き」と深くかかわっているのではないか,という仮説です。
もちろん、人間の存在そのものは,肉体の存在を前提としていることから、人間の精神活動も,言うなれば肉体の活動であるといえます。したがって,肉体と精神とが、前述したように密接不可分なものであることは,ある意味では当然であるといえるでしょう。
しかし,その密接不可分の「有り様」こそ,たとえば人間の意思・判断の「強さや客観性,確かさ」などが、私の関心事であったのです。
このシリーズが,その「有り様」,つまり、かなりデリケートな関係であることを少しでも解明していれば,人間の精神活動に最大の価値を求める私の最も望むところでもあったのです。
このシリーズは,私の青春の一こまであり,どうしても未整理のままでは避けて通ることのできなかった思考形成のワン・ステップでした。これで少しはゆっくりと休めます。サンキュー。
それでは、Good bye!
2008-01-20(Sun)
第77話 禁煙快楽(その十三)
この禁煙快楽シリーズも、あと一回で完結となります。従って、今回は、これまでの内容を振り返りつつ、まとめてみたいと思います。
第一に、結局のところ、どのようにして禁煙に到達したのか。第二に、その努力の中で何を得たか。第三に,その得たものは、どのような性質のものであったのか。 この三点を考えます。
第一点は、既にお分かりだと思いますが、「禁煙の失敗」を何度も繰り返すうちに、禁煙の苦しみから偶然にも「マゾヒスチック快楽」を味わうという経験をしたために、その快楽を執拗に求める余り、結果として「禁煙」にいたったと言うことです。私は、丁度20歳のときに、喫煙を覚え、33歳のときに禁煙にいたったと言うことになり、実に13年間のたばことのおつきあいをしたわけです。
第二点と第三点は、振り返って思いますと、人間は常に何らかの快楽を求めつづける動物であり、それは決して疎まれる特質ではありません.むしろ、神・自然が我々人間に与えてくれた一つの賜物であると思います。
従って、苦痛も働きかけによっては、快楽を得ることができるという人体の秘密は、快楽を飽くなき求める我々人間にとって神・自然に感謝しつつ深く味わうものでもあるのです。
また、この快楽を深く味わうためには、禁煙に主体的に取り組む、あるいは取り組もうと努力することが条件となっていることも、そこに我々人間に一つの生き様を教えているようにも思えるのです。
それでは、Good bye!
2008-01-04(Fri)
第76話 絵本の翻訳で思う
主に、社会科学系や西洋美術系の学術書を翻訳してきた私が、たまたま絵本の翻訳の手伝いをすることになりました。
これまで一度もその経験をもたなかったので、一体どうなることやらと言う思いで始めたところ、ついつい翻訳よりも絵本のストーリーに感動してしまい、翻訳の途中から泣きながら翻訳をすることになってしまったのです。
翻訳を終えても、その感動は一週間後の今でも続き、校正,再校正、再々校正という具合に、熱心に取り組んでおります。
科学と絵本との間に,思考的に何か繋がるところがあるのか、と言うのが今の私の関心とするところです。
率直に言いますと、このたった一回の経験で抱いた一つの印象は、英文の表現では、“擬音”や“繰り返し表現”、あるいは“言葉よりも重い絵の表現”、さらには“故意に優しい言葉表現”などが、日本語表現に比べて著しく少なく、むしろ「多種多様の言葉による表現」の中に著者の感情が移入されているように思われたのです。
もっと分かり易く言いますと、日本の絵本は「絵重視」で、西洋のそれは「言葉重視」の印象を得たわけです。
従って、日本語に翻訳するにあたっては、いかに日本の子供たちの主観的感情に訴えかけるか,という点に翻訳の重点をおかざるを得ませんでした。
二つ目の印象は、英文の表現の中に窺える話の論理的展開を、日本語へ翻訳するときに、どうしてもうまく表現できないのです。日本語にも沢山の言葉があるはずなのに、どの言葉も結果的にお互いに似た感情表現の言葉であるため、英語を日本語に訳し換えると、どうしても絵本の内容が単調になってしまうのです。一体、その理由は何なのでしょうか?ここに書き留めて、今後の私の一つの課題にしたいと思います。
それでは、Good bye!
2007-12-22(Sat)
第75話 電信電話、衛星などマス・メディアによる学習の落とし穴
放送大学での現実が示しているように、いくら高価な映像と音声の設備を整えても、「メディアを経た情報は人間の脳に定着しにくい」と、私は思っている。従って、受講生の多くがほどほどの出席で、使用テキストのみを読んで単位を修得しているという、この放送大学の現実は、理解できるところである。また、単位修得の容易さが、この厳しい現実社会での資格取得のために、放送大学が利用されている理由でもある。
要するに、操るのに相当厄介な人間の「頭脳」には、所詮「機械仕掛けのハイテク教育」も、利用の仕方次第では役には立つとも言えるが、基本的にはほとんど役に立たないと言うことでもある。
そこで、 私は、情報が脳に定着するためには、人間に次のような「思考プロセス」があるのではないか、と思っている。
1人1人の人間には、それぞれの「思考プロセス」というものがあって、そのプロセスは他人とは異なった「思考ペースと思考サイクル」をもっている。
また、その「思考プロセス」には、その前提として、その人特有の情報に対する「志向」があり、その「志向」によって情報を選別し、そして受容された情報を脳はこの「思考プロセス」に取り込むのである。
取り込まれた情報は、その人特有の 「ペースとサイクル」の中で切り刻まれ、幾重にもこね回されて、その人にとって一つの知識として脳に定着する。
このようにして、取り込まれ貯えられた知識が脳内で融合され一つの生き方、すなわち普遍的な考え方=哲学が生まれるのではないかと・・・。
もう一点、放送メディアについて述べると、受講生の目の前にある「映像と音声」のスイッチを切った途端に、人間の脳も貯えた全ての情報を「消去」するのではないかということである。
「消去」されることはないにしても、デリケートな人間の脳の働きによって、「消去」されるに近い現象、すなわち「思考を必要とする情報を、無意識のうちに拒絶している」という現象の結果が、上記の放送大学で見たような、単位修得のためだけの大学生という現象の一つの根拠となるのではないかと考えている。つまり、人間が思考するには、上記した「一定の条件」が必要不可欠となるのである。
そうだとすれば、日本の教育の中で利用されている「放送メディアによる教育方法」には、実に有益な側面がある反面、むしろ無批判的に取り入れている現実には、重大な問題点があるということになる。
それでは、Good bye!
2007-12-13(Thu)
第74話 “ゆとり教育”の出現と消滅の必然
この地球上に存在する無数の知識を単に知るだけであれば、それは物知り博士に過ぎず、その知識量をいくら自慢してもパソコンのハードディスクに勝てるわけではありません。つまり、人間の貯える知識量は、ある意味では、またある側面から見るとなんの価値もないということです。
その意味からすると、無着成恭先生の「全国こども電話相談室」や「全国高等学校クイズ選手権」を知識の有無やその量を争う、単なる“娯楽”(戯れに近いもの)と捉えるのであれば、「教育」にさして問題となるものではないでしょう。
ところが、日本の歴史を遡ると必ずしもそうではないようです。偉い人物として辞書・辞典の編纂から歴史の記録に至るまで、“厖大な知識量=賢人”という図式が描かれているのです。この“知識偏重の図式”が、現在の教科書教育や各種の試験に適用され応用され、更にはその人自身の知的評価にまで繋がっているのです。
さらに、人間が同時に“忘却の生物”であることを考え合わせると、うたかたの如く現れては消える知識に対する日本人の抱くこの執拗な偏重思考は、東洋独自の「文化」に起源をもち、深く関わっているものかも知れません。
もしそうであるとするならば、「記憶力優位・思考力劣位」から生み出され、その結果としてわれわれ日本人自らが未来史において手にするものは、決して科学的社会への発展に資するものではないと言えるでしょう。
従って、ゆとり教育も今後不採用と採用をその時代、その時代の日本人の手による無節操な基準で繰り返すことになることは必然です。
それでは、Good bye!
2007-12-07(Fri)
第73話 知るということー日本の教育に思う
「何ごとであれ深く追究すればするほど、かえってその実体が不可解なものとなり、従ってその物の真理を掴むことが極めて困難なものになる」ということは、そのような環境に現在いる者、あるいはいた経験のある者にとっては至極当たり前なことである。
この至極当たり前のことを「物の判断やその判断による行動規準」としなければならないのは、迷信や宗教、さらに特異な道徳と社会秩序の支配した暗い前時代を乗り越え、今や科学の支配する21世紀に生きる我々にとっては実に納得のいくことである。
ところがどうであろうか。我々のとりわけ精神的成長を施している「教育」を見ると、まるで教科書に記されていることが全て真実であるかのように(しかも、一部の政治家による政策的配慮の働いた教科書を見て)、無限の可能性をもっているが未だ白紙の未成熟な若者の脳に向かって、その教科書のいう「真実なるもの」(本当は真実かどうか分からないが)を真実であると思いこんだ教師が“知識こそ崇高で絶対なもの”と言わんばかりに叩き込むのである。
しかも、それぞれが異なった特質と思考方法をもつ、実に壊れやすい人格を有する生体に対してである。
さらに情けないことに、「無知の知」を知らない者の手によってそれがなされているのである。
結局、日本の教育の現場に見えるものは、真に崇高な科学と人間の生きる喜びを求めるものではなく,日本人のお家芸である前時代にも見たあの“日本というある種の社会構造を狂信者のように頑固に守る”ための“飴と鞭”でしかない。なんとも哀れなことか。
それでは、Good bye!
2007-11-30(Fri)
第72話 大脱出
スティーブ・マックィーン主演の映画「大脱走」(The Great Escape)ではないが、今や日本の若者から老人までのあらゆる世代で年齢で、しかもあらゆる方向に向かって、生き苦しい日本社会からの経済的・精神的な大脱出が始まっている。
脱出の理由も「どうしたら生きれるかから、如何に生きるかに至るまで」様々である。
脱出方法で最も一般的なものは、本人の資質や能力とほとんどと言っていいほど関係のないあの「資格」である。これも各種公務員資格から各種国家資格まで様々あって、その中の一つに、「偏差値の高い大学に如何にして入学するか」があると言えよう。
偏差値の高い私立大学は、そのような親の弱みをねらって小学校を開校したり、塾や高校と結託して教育を餌にした「集金システム」を作りあげる。親も大学も、お互いに「教育」を旗印に、一方は一家の経済的安定、他方は金儲けに走っている現象であるとも言えよう。一体全体、お互いに「教育」をなんと心得ているのでしょうか。
そして、おかしいのは、その流れに乗れない大学や高校や塾、そしてその競争に勝てない哀れな大半の親や子たちまでが、「負け組」になりたくないという一心で「勝ち組」の後を必死になって追いかけているのである。これが、日本人による教育を取り巻く一つの人間模様である。
勝ち組も負け組も後でどうなるかは、第二次大戦の前夜を見るまでもなく、バブル経済期の価値観とその崩壊の足跡を辿って見れば、自ずと明らかなことであろう。
「教育」こそ「人造り」、「国造り」の原点であるにも関わらず、親子、民間・公立の教育機関、そして国家までもが、それぞれの理由で、結局一番大切な日本の若者を食い物に、彼らに与えねばならない「本当の教育」をないがしろにしているのである。
それでは、Good bye!
2007-11-23(Fri)
第71話 自我の目覚め
春,土筆が芽を吹くと“太陽の光“を体一杯受けてすくすく育っていく。
人間も母のお腹から生まれてくると”母乳“を一杯飲んですくすくと育っていく。
人間には、その数年後、自分はこの人間社会の中でたった「1人しかいないもの」、そして「自分には何でもできる、できるような気がする」と思う時が必ず来る。誰にも必ず来る。この現象を「自我の目覚め」と呼ぼう。
この現象は人間にしか生まれてこない、土筆にはない第二の現象、「意識」の存在である。この意識の存在は、今度は“教育の力“によって1人の人間の「人生哲学」へと結実していく。この哲学こそ人間が子孫に残すことのできる大切な心の財産である。
しかし、ここで立ち止まって考えてみよう。
一体全体、われわれ人間は皆この「人生哲学」をもっているのだろうか。
もし、もっていないとすれば子孫は必ず滅ぶ。
心の栄養をとっていないからである。
では、なぜその哲学が結実しないのだろうか。それは、哲学を育てる土壌としての役割を果たす「教育」がそこにはないからである。
ひとりひとりの人間の「尊厳」よりも、共同体の秩序が必要とする「協調性」に最大の価値を求め、そしてひとりひとりの人間が秘めた無限の可能性よりもたった一つの価値でしかない「記憶力」の方に最大の価値を求め、それを偏差値という数字でその人に判決として言い渡すからである。
その瞬間に、無限の可能性をもってこの世に生まれた一つの大切な生命が、生涯にわたり自分の意思ではどうにもできない奴隷と化してしまうのである。
しかも、この「教育」という判事が言うには、“善かれ”との思いでしたのであって、“悪しかれ”との思いでしたのではないと・・・。
それでは、Good bye!
2007-11-15(Thu)
第70話 自分の計算で生きる
「自分は他人によって生かされている、とか仏によって生かされている。」と、意識的にではなくとも無意識的に、本気でそのように日本人は思っている。そう思っていなかったとしたら、その人は日本人として罰当たりである。われわれ日本人は皆、仏の慈悲によって生かされているとありがたく感謝しているのである。
自分があるのは、自分の意思によるのではなく、自分以外の他人、さらには仏のおかげによるものである。従って、家族の者が幸せに暮らせるのも「会社という他人」の慈悲によるものであり、従って、会社の命運は仏の存在と同じく、尊大なものである。
要するに、自分の人生、言い替えると人間の人生は、あくまでも「自分の計算によるものではなく、他人すなわち会社の計算によるものである」と、日本人は考えているらしい。特に、学校の教師は、無意識的に他人とは違う自分を認めることは、協調性のない人間が出来上がると考えているようである。(少しばかり脱線するが、聞くところによると、受け持ちの生徒が全員志望大学に合格すると教師は責任を果たしたと思うらしく、そうではなく多浪生を抱えると強く責任感を感じるらしい。要するに、受け持ちの生徒を志望大学に入れることが教師の責任であると思っているらしい。入れてしまった後のことは、当然教師の責任とはなんの関係もないと。)
しかし、他人の計算で生きることの苦しさを実際に知ることができるのは、日本の学校教育を離れた人間社会であり、また自分の計算で生きることの喜びを心底から知ることができるのも、この人間社会から見捨てられたか、見捨てたかした時であるといえる。
それでは、Good bye!
2007-11-09(Fri)
第69話 禁煙快楽(その十二)
第68話の中で、「科学する脳へのプロセス」を取り上げました。今回は、そのプロセスを「苦痛と快楽」の視点から詳しく説明します。
科学する脳への全体構造は、以下の通りです。精神の集中の場合の快楽は、「精神の集中への取り組み〜気持ちいい〜軽い苦しみ〜主体的経験の働きによる強い苦しみの繰り返し〜runner’s high 現象」による快楽ですし、禁断症状の場合の快楽は、「喫煙による快楽〜喫煙による不快・軽い苦しみ〜禁煙による苦しみ〜主体的経験の働きによる強い苦しみの繰り返し〜浜に打ち寄せる波の如く法悦の境をさまようオルガスムス快楽です。そして、この二つの取り組みを組み合わせることによって、単なる精神の集中への取り組みが、オルガスムス的現象」の快楽に入力され、そしてその結果として宇宙につながる「科学する脳」へと発展するのです。
このプロセスの中で、いつ如何なるとき、どのような条件のもとで、前者の行為から後者の快楽へスイッチが切り替わるのかということです。更に、その切り替わりのプロセスは、その後の人間活動の中で、切り替わる時期、切り替わった後の状態に変化はないのかを考えます。
精神の集中への取り組みによって「気持ちいい快楽」の段階で、後者のオルガスムス的現象の快楽へと自動的に切り替わるのです。なぜなら、苦痛による「拒絶反応」を繰り返し、主体的経験によって「受容反応」へと転化するための経験を積んできたからです。
そして、この切り替わりの時期は、その後の人間活動の中で早まるなどの変化はありませんが、たどり着いた快楽の内容に変化があります。それは、禁断症状による快楽は、その快楽の性質が、あくまでも有害物質に起因するマゾヒスティック快楽ですが、時がたつにつれ禁断の初期に味わえるあの「浜に打ち寄せる波のような性質」のものは影を潜めるけれども、やはりあの強いオルガスムス的快楽は味わえるのです。
少し書き急いでしまいました。このシリーズの一つの目的は、私の経験とそれにもとずく考え方を記録として留めておくことなのです。従って、結論へ少し急ぎすぎている感はありますが、所期の目的は果たせたのではないかと思います。このシリーズもいよいよ残すところ、後2回となりました。全力を挙げ取り組みます。ご期待下さい。
それでは、Good bye!
2007-11-08(Thu)
第68話 禁煙快楽(その十一)
この第68話では、強い苦痛に対する神経系統の「拒絶反応」が、なぜ主体的経験という媒体の働きによって、「受容反応」へと転化するのかについて考えたいと思います。この拒絶反応は、一般的に精神の集中であれば学習という行為を中断することであり、禁断症状であれば再度喫煙を開始するということです。
それがなぜ主体的経験の介在によって拒絶が受容へと転化するのかについては、二つの人体における生理現象に行き着きます。一つは、人体の生理現象は、その主体である人の「意思」によって影響を受けるということであり、二つは、「苦しいが気持ちいい」という生理的な感覚が苦しいと気持ちいいに分かれることなく、同時に生じる神経系統が一つしか存在していないと言うことです。
このことから、脳生理学上は「苦しい」と「気持ちいい」とは、同一の神経系統で作用する「同一の反応」であるということができます。
従って、苦痛に対する「拒絶反応」が「受容反応」へ転化するのは、人の「意思」が生理現象に影響を与えた結果であるということになります。
この考え方をあらゆる精神の集中の中に応用し、生かすことによって、実に面白い仮説が生まれるのです。それは、この方法を用いたならば、「極普通の脳を科学する脳へと大きく発展させることができるのではないか」という仮説です。
次回は、この科学する脳へのプロセスを考え、更にそのプロセスをどのように応用するのかについて考え、そして最後に禁煙という結果のプロセスとそのプロセスを再現する価値について考えます。お楽しみに。
それでは、Good bye!
2007-10-26(Fri)
第67話 禁煙快楽(その十)
この第67話では、「精神の集中」による「runner’s high 現象に類似の快楽」と「禁断症状によるマゾヒスティック快楽」の内容的側面から見た相違点について述べたいと思います。
私は、このシリーズの(その二)と(その五)において、「禁断症状による快楽」は、「runner’s high 現象に類似の快楽」と比べて@強度,A深さ、B質の点で遙かに優る極楽気分が味わえるほどのものである、と述べました。しかも、前者の快楽は不作為によっていともたやすく、しかも短期間のうちに味わえるものです。なぜなら、禁断症状が訪れると同時に快楽現象が体の隅々に至るまでしびれるように訪れるからです。
私はこの快感を、「きりきり感」と呼んでいます。この「きりきり感」は、波が浜に打ち寄せるが如く、徐々に大きく打ち寄せては去っていくように、大きな興奮とその後に訪れるしびれるような静かな満足感が全身に広がり、それが長く繰り返されるのです。
この快楽は既に述べたように「主体的経験」という媒体を「苦痛」に対して与えることを前提としているので、全ての禁煙者が味わうことができるものでないことは言うまでもありません。また更に、禁断症状による快楽は、その快楽を求めるあまり、精神の集中とその持続を必要とするランニングや学習のように肉体を酷使する必要が全くないのです。
快楽を測定する基準として、@強度、A深さ、B質 を挙げましたが、その基準の一つ一つの検証は後日行いたいと思います。また、快楽の測定には、「持続性」という基準が必要であると思います。一瞬のうちに消え去る快楽か、それともお香のようにある程度の時間、それを味わうことができるかは、快楽の価値を計る上で実に重要であると考えるからです。
それでは、Good bye!
2007-10-20(Sat)
第66話 禁煙快楽(その九)
第61話で指摘した「禁断症状」に対する「主体的経験」とは具体的に何か、について述べたいと思います。それは、一言で言うと喫煙という「気持ちのいい快楽」から「禁煙」によって襲われる強度の「苦しい感」に至るまでのプロセスを「主体的に」繰り返すことなのです。
この禁断という神経細胞に対する負荷は、「精神の集中」の場合の負荷とは異なり、喫煙しないという不作為の「消極的な負荷」であるため実に即座に実行できるものです。
しかし、精神の集中による負荷は快楽と苦痛とが同一の作為上にある神経細胞に対する「積極的負荷」に対して、「禁断症状」の場合は、入口が喫煙という作為による積極的負荷で、出口が禁煙という不作為による消極的負荷である点で,入口の方が更なる強い苦痛を求めて「積極的負荷」を神経細胞に課さねばならず、その意味では、出口よりも遙かに強い「主体的経験」を必要とします。
ところが、出口の「禁断症状」の場合は、単に不作為を継続させるだけで、時間の経過に伴ってますます強い苦痛を神経細胞に課すことができるのです。更に、入口と異なって、強い苦痛へのプロセスは、科学的な思考の下にある「精神の集中とその持続」という実に健全にして時間の掛かるものではなく、正に「直ちに」とでもいえるほど短時間のうちにたどり着けるのです。 その原因は、当然のことながら有害物質である「ニコチン」の作用によるものです。
つまり、この短時間に訪れる「強い苦痛」を神経細胞に繰り返し課すことによって、脳内の神経細胞が拒絶反応から受容反応へとスイッチが切り替わり、禁断による刺激を「強い苦痛」から「オルガスムス的快楽」(マゾヒスティック快楽と呼んでもよい)へと大きく転換するのです。
それでは、Good bye!
2007-10-12(Fri)
第65話 禁煙快楽(その八)
第61話の中で問題提起した「精神の集中」に対する主体的経験とは、具体的には何かについてお話しします。
分かりやすい例として挙げるならば,runner’s high 現象が生じる前段階の、気持ちいい快楽から強度の苦しい感に襲われるまでのランニングを「主体的に」繰り返すことなのです。同じランニングであっても、行為者が自らの意思と目標にしたがって科学的に繰り返される場合とそうではなく全く反対の条件で繰り返される場合とでは、全く異なった結果が出ます。前者は、一種のオルガスムス的快楽であるrunner’s high 現象が生まれるのですが、後者には激しい「苦痛」が生まれ、この「苦痛」を繰り返すことによって、結果的に精神と肉体の崩壊が生まれ、そして走ることができなくなるのです。
このようなスポーツの例は、脳性理学上、同じ神経系統を用いる学習についてもいえるのです。学習に主体的にそして科学的に取り組むならば、脳内の神経系統が大きく発達拡大し、「苦しい感」に至る一定の刺激に対して脳が拒絶反応ではなく受容反応、つまりその刺激を「苦痛」ではなく心地よい刺激である「快楽」へと転化させ、このことから脳はますます大きな無限の可能性を持つようになるのです。
もし、学習に取り組む場合に、これとは対照的に目上の者や自分を取り巻く周囲の目を意識して非主体的に、そして目的にせよ取り組み方にせよ、師と思われる者の指示に盲目的に従って非科学的に取り組めば、脳は「苦しい感」に至った刺激というもの全てを拒絶することになり、この刺激を繰り返すことによって、結果的にランニングと同様の精神の崩壊が生じることになります。
最近の若者の犯罪を見ても、よくそのことが分かります。特に日本の進学教育といわれる教育は直ちに辞めるべきで、いうならばそれは合法的犯罪であるといえます。
それでは、Good bye!
2007-10-07(Sun)
第64話 禁煙快楽(その七)
第63話に引き続いて、「主体的経験」を取り上げます。「強度の主体的経験」とは、極端な言い方をすれば、「自我及び自意識に基づき、科学的根拠に裏打ちされた目的とその目的意識による行為の連続性」とでもいえるものです。この経験によって、「気持ちいい快楽」から一気に「マゾヒスティック快楽」へと昇華できるのです。
この媒体には、二つの重要な条件があります。一つの条件は「強度の主体性」であり、もう一つの条件は強度の主体性による「経験」です。
日本社会では、前者を「根性」とか「やる気」、更に古くは「精神棒で根性・魂を注入する」とかいって、行為者の意識形成に非科学的な精神論を押しつけ,そのうえ行為者の人間としての尊厳までも否定してきた歴史を持っており、一部の先端科学やスポーツを除いて、それは現在でも基本的に日本の教育や社会生活の中で精神的主体性として行われています。このことが一人一人の日本人が本来「人体と心」に有する深い快楽を味わえない理由ではないかと考えています。つまり、「強度の主体性」とは、その人が一人の人間としての尊厳と誇りを持ち、意識形成が科学的に保証された地球上に二人としていないその人の存在、というのが純粋な意味での「強度の主体性」です。
もう一つの条件である「経験」は、別の表現で言えば、「行為の繰り返し」です。つまり、病気の人体を治癒させる方法として、病巣を外科手術によって切除するのではなく、人体の治癒力を利用した漢方によって病巣を消滅させるのと同じように、主体的に「苦しい」感に襲われるに至るまで、同一の行為を断続的に繰り返すことなのです。
それでは、Good bye!
2007-10-03(Wed)
第63話 禁煙快楽(その六)
第62話にひきつづいて、「主体的経験」を明らかにしたいと思います。
人は何事に付け、行為に対して意図もしくは目的があります。それを「意思による行為」としますと、行為には必ず人体に対する何らかの刺激を伴いますから、その刺激が「苦痛」になるか「快楽」になるかは、一般的には刺激の誘因となる「行為者の意図、もしくは目的」と深い関係を持つことになります。従って、言葉を換えて言いますと「苦しい気持ちいい」という現象は、「苦しい」という刺激が「気持ちいい」という刺激によって、意識の中もしくは無意識の中で否定され、よって行為者にはむしろ充実感・満足感がもたらされます。
しかし、私の言う「マゾヒスティックな快楽」は、このような快楽をさして言うものではありません。この種の快楽は、単に「気持ちいい程度の快楽」に過ぎません。従って、行為者による一定の意図もしくは目的による「外的な働きかけ」が、相当程度継続されても当初の意図もしくは目的に相当する結果が得られなければ、その継続された人体への刺激が「気持ちいい程度の快楽」に至らず、むしろ「苦しい感」に襲われて、結果として「外的な働きかけ」を中止することになります。
苦痛からマゾヒスティック快楽へ転化させるときに、ミーディアム(媒体)として働く「主体的経験」は、行為が行為者による「一定の意図もしくは目的」に基づいて開始された場合でも、その行為による「気持ちいい快楽」に至る前に置いて、「強度の主体的意識」に基づく「苦しい感」に襲われるまでに至る行為の継続を何度となく繰り返すことを言うのです。
「強度の主体的意識」について、次回にもう少し詳しく述べておきたいと思います。
それでは、Good bye!
2007-09-28(Fri)
第62話 禁煙快楽(その五)
第61話の中で述べたように、「主体的経験」を精神の集中と禁断症状の両面から検討したいと思います。
精神の集中であれ禁断症状であれ、われわれが人体に対して何らかの刺激を与えることは、その行為者の「なんらかの意思」を介さずして行うことはできません。従って、その「なんらかの意思」の中に「無意識による意思」をも含めることにします。その「意思」を介して行うという人体に対する働きかけを、以下において具体的に言うと、「精神の集中」の場合は、人体に対して「積極的な負荷」を課すこと、つまり何も考えないでただぼんやりと過ごすのではなく何かの目標を立ててそれに取り組むような、人体に対しての「意思に基づいた働きかけ」をすることであり、もう一方の「禁断症状」の場合は、人体に対して「消極的な負荷」を課すこと、つまり喫煙を辞めるという「意思に基づいた働きかけ」を人体に対して行うことを指します。
この両者の「意思に基づく働きかけ」を比較すると明らかなように、「精神の集中」の場合は、働きかけによって得る「苦痛」は容易には訪れません。むしろ、一般的には「快楽」を得るための働きかけであって、「苦痛」を得るための働きかけではないといえるでしょう。 従って、もし精神の集中による「苦痛」を得るには、集中度とその持続のレベルを強める必要があります。
ところが、「禁断症状」の場合は、喫煙を辞めてさほどの時間をかけずに再度の喫煙の欲求が生じ、それを抑えることによって時間の経過に従い「苦痛」の度合いが増していきます。
この両者の「苦痛」に至るプロセスと「苦痛」の人体に対する及ぼし方の違いが、後に述べることになりますが「快楽」の容易性とその強度・深さ・質という本質的な問題に関わってくるのです。
以上から、両者において、ともあれ「苦痛」を得るには「行為者の意思による人体への働きかけ」が必要であることを述べました。
次回は、上で述べた「行為者の意思による人体への働きかけ」と「主体的経験」との関係を述べたいと思います。
それでは、Good bye!
2007-09-16(Sun)
第61話 禁煙快楽(その四)
第41話の中で、「精神の集中」が誘因となって”runner’s high 現象”と類似した「苦痛から快楽へ」転化されると述べましたが、それは「禁断症状」が誘因となって生じる”マゾヒスティックな快楽現象”と、快楽の程度の差こそあれ、本質的に脳生理学上は同じであるということです。
ということは、神経細胞に与える刺激、即ち快楽への誘因となる一方の「精神の集中」と他方の「禁断症状」との間には、何か”共通の要素”があるのではないかということです。私は、それを「主体的経験」と呼んでいます。つまり、精神の集中であれ禁断症状であれ、そこに「主体的経験」というミーディアム(媒体)の働きによって、「苦痛から快楽へ」転化されるという人体の秘密があるのです。
では、その「主体的経験」とは何か、を後日改めて「精神の集中」と「禁断症状」の両面から検討します。更にその後で、@「禁断症状」に対する具体的な「主体的経験」(快楽への媒体となるもの)とは何か,A「精神の集中」に対する具体的な「主体的経験」(快楽への媒体となるもの)とは何かを検討し、更にその後で、精神の集中という誘因による”極楽気分”を人生の中でプラスに応用する方法を検討し、最後に禁煙によってもたらされた禁断症状という”快楽への誘因”が、時がたつにつれ如何に変質するかを検討します。ご期待ください。
それでは、Good bye!
2007-09-09(Sun)
私は夏休み期間中、十年ぶりに小・中学校時代の同級会に出席し、恩師であり又日本人としての人生をまとうせんとしている二人の人生の大先輩から、現在の学校教育の荒廃の原因は、ひとえに”子を持つ親”にある、と例外を言うこともなく、疑うこともなく、親が一方的に悪いという判断を私に示されました。
しかし、悪くないはずの学校教育を受けた日本の若者も、いずれは”子を持つ親”になる身であり、教育崩壊の原因を例外なく教師からこのように責められることになるのである。
このように考えていくと、教師もまた一人の親としての立場に立つと学校から責められるはめになり、結局のところ、責められないのは、「教育者という神聖なる職業(聖職)と文部科学省の教育方針(国家権力)」ということになるのではなかろうか。
実に面白い結論ではないか。そこには一番大切な「教育を受ける権利を有する子女」(憲法第26条第1項)、つまり将来日本社会をになう大切な日本の子供たちがいないのである。
要するに、日本の教育現場には、民主教育がないということになる。なんまいだ、なんまいだ・・・。
それでは、Good bye!
2007-08-19(Sun)
第59話 連載:キーワードからみる人・社会
(研究職志望のポストドクター・生物学専攻、20代,女)
ーポスドクからみた大学生・大学観ー
ー大学生をみて
玉石混交(良馬もいるが駄馬もいる)
学生も大学も規律・管理にルーズ
個人努力と自己責任
連帯(群れて行動する)
自由(一見何ごとにも拘束されていない)
刹那を楽しむ若さ
やる気なし(ダリー)
オタクと今時の若者の二極化(女)
先端技術に触れる者と触れない者
ー大学をみて
ゆりかご(学生を好きにさせておくと、親は文句を言わず学費を払う)
モラトリアム(社会の喧噪が届かない一時的サナトリウム)
閉鎖社会(人間社会とつながりがないある種の監獄)
コネが生きている
アカハラの横行
レッテルの氾濫(表面的価値観)
隣の田んぼは青く見える
専門性は世間と溝を作ること
研究費は大学への貢献と世間の話題性で決まる
研究に成果主義を導入
それでは、Good bye!
2007-07-26(Thu)
第58話 新しい酒を古い革袋に入れるな
この言葉は、聖書のマタイ福音書に記されており、”新しい考え方を受け入れるには古い制度を壊さねばならない。”というものです。
話は変わりますが、安倍首相のアンシャンレジューム発言は、思うに古い酒を新しい革袋を捨て去ってまでして入れ替えると言うものでしょう。この聖書の言葉は、私に日本語と英語、言い換えると東洋の文化と西欧の文化の一つの違いを教えてくれているように思えるのです。特に、東洋の文化の究極にある日本の文化を理解する上でも大いに役立つと思いますし、反対に日本文化の究極にある西欧の異文化を知る上でも大いに役立つと思います。
即ち、この聖書の言葉の意味するところは、要するに何ごとであれ、人間が思考して、一つの判断を下し、そしてその判断に従って行動を起こすためには、「酒と革袋」、すなわち「思想と制度」、さらにその思想を分析すると「思考とその基準」、という二つの要素が必要になることを表していると思います。
しかし、どうでしょうか,我々の文化には、どちらかというと「酒」はあっても「革袋」がない、あるとしても自前の革袋ではなく、明治維新以前は中国、遠くはインドから持込み、十分に消化しないうちに西欧から持込み、さらに飲み込みもしないうちに今その「革袋」を、国民は反対しているのだが、安倍首相は捨てるつもりらしい。
つまり、酒と革袋は「一体化」しているものであるというのであれば、一方がなければ他方は立たない関係に立つから、当然のことながら我々日本の文化は、言い方にもよるし捉え方にもよるけれども、「欠陥」があるとも「特徴」があるともいえると思う。
もし、文化というものに、そもそも「欠陥」という概念そのものが成り立たないとするならば(私には未だ分からないことではあるが)、ではその「特徴」とは何か?について考えなければなりません。私は、その点について少しばかり考えるところがあります。
それでは、Good bye!
2007-07-23(Mon)
第57話 ロボットと人間
このテーマは、今後このブログの中で様々な角度から見つめ直すことになると思いますが、翻訳の基礎理論を確立する上で、私の脳裏に絶えず現れては消え、消えては現れるテーマなのです。
また、時代を私の高校時代にまで遡ると、要するに60年代の安保闘争さなかの臨時生徒総会で、高校三年生のある同級生が「教師はロボットである。」と叫んだ時以来、私の頭の中で生き続けているテーマでもあるのです。
翻訳の基礎理論を確立することは、要するに翻訳作業を人間の手によるのではなく、機械の手による(machine translation と呼んでいる)、即ちロボットの手によるものなのです。
このことから、「ロボットとは何か?」「機械とは何か?」「自然言語とは何か?」そして、「翻訳とは何か?」「外国語での会話とは何か?」という一連のテーマに取り組むことになったのです。
先程、私の同級生が「教師はロボットである。」と叫んだその「ロボット」とは、言うまでもなく自分の教育理念を持たないで、文部科学省検定の教科書を鵜呑みにし、それをただ単に解説し、暗記させることが教育者としての使命であると思いこんでいる高校の教師の姿は、まるで「意思のない機械、ロボットである」を指していると思います。
実は,ここでいう「ロボット」という概念は、人間の手による翻訳作業でも、また通訳としての業務(英会話など)においてもいえることなのか、が最大の問題なのです。もしそうであるとすると、自然言語は意思を伝える伝達手段に留まらず、脳内での思考方法を司る働きを持っているために、その作業を繰り返すことにより異文化による文化的な侵略という現象が生まれ、結果として自国の文化が破壊されることになるからです。
要するに、先程述べた日本の教師に見る現象と似たような、つまり文部科学省によるのではなく、「異文化によるロボット化」が適法に行われることになるのです。
しかし、この点について私は別の考え方を持っているのです。
それでは、Good bye!
2007-07-22(Sun)
昨今、大阪のある高校が一人の生徒に関関同立を73回受験(センター利用)させ、同高校から関関同立へ73人の合格者を出したかのように装い、次年度の生徒募集にその実績を利用するという事件が報道されました。
この事件は、報道機関が日本人の常識を遙かに越えたあまりにも極端な事例として取り挙げたものか、それともある私立高校が「偽の値札」(どこどこ大学何名合格)で来年度の生徒募集を行ったことへの怒りなのかは、私の知るところではありません。
40年以上も民間で教育の仕事に携わってきた立場から見ると、「今更何を大騒ぎするのか」といいたい気分です。「関関同立に何人合格したか」は、私立中高にとっては学校経営上重要な生徒募集の商品の一つであり、さらにその商品を作り出す当の関関同立にとっては、その商品を売りさばいてくれる私立中高は大事なお得意先なのです。
ですから、今回の事件性について、仮に関関同立側がその異常な受験の仕方を知っていても、公開しないのは当たり前です。このような教育を巡る親子・学校・大学という三者の構図を眺めると、大学も私立中高(最近では公立中高も含まれる)もお互いに、日本の親子の歪んだ価値観に阿ねて教育を金儲けの手段にしているといえるでしょう。
それでは、Good bye!
2007-07-22(Sun)
第55話 連載:キーワードからみる人・社会
(獣医師志望の大学職員、経済学部卒、20代、女)
ー大学職員からみた大学生・大学観ー
学生の甘え、それを認める大学
大学生を子にもつ親が未熟
実社会とのギャップ(いろんな点での格差)
低い社会意識と平和ぼけ
学生無視の儲け主義
強度のブランド意識(学歴)
不況意識ゼロの大学人
大学人全てが自分の無知に気づかない環境
高校教師(担任)の非専門的知識(学問からほど遠い)と無責任感覚(とりあえず大学へ放り込んどけばいい)
大学も高校と同じく総じて素人衆団
留学の受け入れハードルが低い
くだらない単位を自慢する学生
友達づくり・サークル活動に夢中
教授の都合で全てが決まる
職員のさじ加減で全てが決まる
それでは、Good bye!
2007-07-19(Thu)
第54話 連載:キーワードからみる人・社会
(ジャーナリスト志望の私立大学2年生・社会学部・男)
ー大学生からみた大学生観ー
カリスマとその仲間達
束と群
聴き嫌いの話し好き
JIS規格
自戦力以下の敵との必死の戦い
相手に厳しく、自分に優しく
右から左
砂上の楼閣
かげぐち
全力逃避
打ち上げが本番
みだれうち
酒と涙と男と女
私語
未知なるモノへの恐怖
突然の思いつき
妥協
桜のごとき生き方
無意味な反抗、無意味な従順
楽しみ方・生き方に関する無知
それでは、Good bye!
2007-07-17(Tue)
第53話 連載:キーワードからみる人・社会
(医師志望の国立大学4年生・経済学部・男)
-大学生からみた大学生観-
就活
内定
単位
サークル
合コン
友達
学歴(偏差値)
資格
負け組・勝ち組
劣等感・優越感(イケメン・ブサメン)
鬱
したいことが見つからない
将来への不安
理想と一致しない現実
自主休講
コミュニケーション能力の重視
「空気読め」
2ちゃんねる
英会話
ファッション雑誌(Can Cam,JJ)
「可愛さ」の重視
「人生オワタ\(^o^)/」
それでは、Good bye!
2007-07-16(Mon)
第52話 現代版一握の砂
戦後の教育の中でよく道徳教育の重要性が叫ばれてきた。
他人に対しては思いやりを、老人や子供には親切に、祖父母・父母には慈愛の気持ちを、そして師に対しては敬いの気持ちを、そしてさらに、勤勉と節約を自らへの戒めとして求めてきたのである。
しかし、今の日本社会をみると人を人とも思わず、自らの欲望を満たすために、俺俺詐欺に留まらず青少年の犯罪が氾濫し、自殺者の数は今や9年連続3万人台である。
まるで教育の中で叫ばれてきたことと真反対の社会現象が起きているのである。儒教の教えは、人間を大切だとする面と虫けらだとする面と両面があるのでしょうか。
もっと不思議に思えるのは、政治の世界である。一方でやれ勤勉、節約を力説しておいて、他方では競争社会や格差社会を作り出す。われわれ庶民は、いくら勤勉に働いても、いくら家計を節約してもまともな生活ができないのである。
つまり、政治や教育が力説する「勤勉と節約」が、同じ政治や教育が作り出す「競争社会と格差社会」にどれだけ努力しても到底追いつかないのである。
従って、私には、日本人の考える教育と政治がまともには理解できないのである。
それでは、Good bye!
2007-07-13(Fri)
第51話 見栄と張ったりの文化に思いやりなどはない
日本のしきたりや言葉の中に、他人に対する思いやりを表すものが沢山ある。
車中のシルバーシートや過度に丁寧なお辞儀、あるいは年賀状やお悔やみの言葉など挙げればきりがない。これらの思いやりの表現は、社会を健全な方向へ導くものであるから、当然是とされ強調される。
しかし、それとは反対に他人の不幸を、教訓とするのではなく、むしろ喜ぶような風潮が今のわれわれの社会にはある。この風潮の底にあるものは一体何なのか。私が思うに、その底にあるものは、一つに見栄と張ったりの文化にあるのではないかと思っている。
見栄と張ったりは、「本当の自分の姿」を隠し、社会の一般的価値観におもねるからである。では、今のわれわれの社会の持つ一般的価値観とは何か、それは、@権威とA偏差値による評価(学歴)とB金であり、そしてその金で権威と偏差値(学歴)を買うこともできるのである。
なぜなら、われわれ社会の権威と偏差値による評価(学歴)には、何らの客観的価値の欠けらもないからである。虚飾にまみれ「本当の自分の姿」で生きていない人間に、他人に対する心からの思いやりなどあろうものか。
要するに、「本当の自分の姿」で生きる大切さを教えるのではなく、教科書の知識のみを「本当の能力」と思いこみ、その知識量を合格の基準にしている大学入試を含め、教育全体が堕落しているのである。
それでは、Good bye!
2007-07-06(Fri)



